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第5章 ホイアン


 車と運転手を35ドルでチャーターし、翌日は朝からホイアンに向かいました。 ダナンからは30キロぐらい。車で1時間もかかりません。道はずっと平坦で、路面状態も悪くありません。 オートバイで来ればよかったと後悔しました。


 ホイアンは、例えて言うなら、飛騨の高山や妻籠のような町。 古い街並みがそのまま保存されていて、タイム・マシンに乗って歴史巡りするような楽しさが味わえます。

 
  とはいえ、海洋性の気候のせいか、歴史の重みとか、かび臭さとは無縁の世界。 南国の太陽が、色彩豊かな町を華やかに照らし出し、海風が、歴史の底に澱んだおりを一掃しています。


 南ベトナムで初めて、中国人の移民が、ここに華人の集落を形作りました。 いまでも中国色が強く、全人口6万人のうち、
1,300人が生粋の中国人です。 ベトナム人との関係は良好だということなのですが、それはおそらく、ホイアンが国際的な港町で、 外来の文化に対して常に寛容だったということが影響しているのでしょう。江戸時代初期までは、日本人町も、ここ、ホイアンにありました。






        
ホイアンの町。下段左の橋は、かつて「日本橋」と呼ばれていた。



 ホイアンの旧市街地、バクダン(白浜)通りに面してトゥボン川が流れ、5キロ東で、南シナ海に注いでいます。 何世紀か前、世界中からやって来た貿易船がここに停泊し、様々な肌の色をした商人たちで賑わいを見せていました。

 
 インドからマラッカ、バタビア、アユタヤ、ホイアンを経て、マカオ、寧波と物は流れ、アジア貿易圏の最北の地、 日本にまでつながっていたのでしょう。物の流れ、つまりは交易という形をとおして、日本は、世界としかっかり結びついていたのだという気がします。

 
 トゥボン川で、ボートをチャーターしました。漁船から女の子ふたりがボートに乗り移り、僕のところにやって来ました。 もぐりの観光ボートは違法なのですが、頓着する様子もありません。


 女の子のひとりは17才。真っ黒に日焼けし、とてもじょうずな英語を話します。 もうひとりは21才。寡黙なのは、英語が話せないからなのでしょう。


 寡黙なほうの女の子がボートを漕ぎ、17才の女の子がガイドをしてくれました。 中国人を父親に持ち、ベトナム人を母親に持つ彼女は、話し上手で、僕は、のんびりたゆたうボートの上で、彼女との会話を楽しんでいました。


 料金はたったの2ドル。あまり安いので、色はつけなければと思ってはいました。 彼女に言わせると、網元にコミッションを支払う関係で、20ドルとる船もある、ということ。


 「わたしはいいのよ。2ドルでいいのよ。」と、彼女は念を押します。


 40分ほど、ボート遊びを楽しみ、陸に上がりました。半信半疑で2ドル支払うと、彼女は、


 「市場で店を持っているの。シャツを売ってるんだけど、見に来ない?」と、僕を誘います。


 無論、僕は断れません。Tシャツ1枚、5ドルぐらいかなと、計算しながら、ふたりの後を追いました。




ホイアンの市場とトゥボン川




 市場の、彼女の叔母、という人の店。安物の衣料品が、猫の額ほどのスペースに、所狭しと並んでいます。


 「これなんかいいわよ。」と彼女が薦めるシャツは、日本では到底着れないような代物ですが、ほかにまともなものがあるでもなく、 すでに負けを覚悟している僕は、「ハウマッチ」と、叔母さんに訊ねました。


 「20ドル。」と、その叔母さんは無愛想に答えました。
 「ディスカウントは?」
 「ノー。」


 うなずきながら、200,000ドン差し出すと、彼女は「ベトナム・ドンなら、あと20,000よ。」と、冷たく言い放ちます。

 
 僕がもう完全に戦意喪失していること、ここへ連れてきた外国人ツーリストは、必ず言い値で支払うことを見透かした態度です。


 「それでは、いいよ。」と言って、なにも買わずに店を出ることも可能でしょう。 しかし、ボートの少女たちの労働の対価や、楽しく過ごした40分間の値段が2ドルでは、確かに安すぎる。 買わずには出られない関係が、僕と彼女たちとの間には出来ていました。


 しょせん、生きることの必死さが、彼女たちにはあって、僕にはない、ということなのでしょう。 今日生き延びるために、間抜けな外国人旅行者から、20ドル吐き出させる、という当然の理由が、彼女たちにはあるのです。


僕は怒りも感じず、いっしょに記念写真を撮って、さよならを言いました。


         
                     

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