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 パタニ・異境の街

                             
第4章
 


 林道乾(リム・トーキエン)は16世紀の初頭、福建省泉州に生まれました。


 少年時代より身体壮健、武芸に秀で、成長した後は、地元の若者たちを集め、私兵として組織していきました。 当時としては相当の地方的な勢力で、福建沿岸にさかんに出没しいた和冦も、泉州だけは避けて通っていたようです。


 1557年、このあたりの海上を支配していた汪直という海賊が、明の官吏に誘殺されると、林道乾は、 その勢力を引き継ぐことになりました。しかし、それが明朝廷の猜疑を招いてしまいます。


 和冦との海戦で大勝した明の艦隊は、林道乾に狙いを定め、澎湖列島から台湾へと林を追撃します。 林は、ベトナム、タイへと南下を続け、ついにパタニにたどり着きました。


 当時、パタニは、マレー人の支配するイスラム王国でした。 パタニ王に謁見した道乾は、その人材を見抜かれ、家臣として重用されます。 マレー女性と結婚し、イスラム教に改宗すると、爵位を授与され、富貴で栄華に充ちた生活を送ることになりました。 林道乾は、ここ、パタニの地で、その人生を開花させたのです。




パタニの街の中心部。 中国の福建省あたりを思わせる。
                                         


  林姑娘(リム・コーニオ)は林道乾の妹で、「幼少の頃より、聡明で賢く、文もよくなし、武術にも通じ、かつ器量にも恵まれていた」と、 「林府姑娘事跡」という冊子には描写されています。


 道乾からの音信が途絶えた母親は、憂いのあまり病に倒れ、姑娘は、看病の日々に明け暮れます。 そして母親が病から回復すると、自らパタニを訪れ、兄の説得に赴くことを決意しました。


 周囲の反対を押し切り、彼女は船出しました。航海は過酷で、従者9人が、途中で命を落としています。 パタニに着き、兄、道乾に再会した姑娘は、来訪の目的を話し、帰郷を促します。 姑娘やその母親にとって、パタニのような辺境の地で、マレー女を娶り、邪教にうつつをぬかす兄の振る舞いは、理解の範疇を越えていたのでしょう。 しかし、妹がいくら説得しようとも、すでにパタニの地で自らの人生を切り開いた道乾は、応ずることはありません。


 ここで、ふたりの間にどのような確執が生じたのか、いまとなっては想像するしかないのですが、 その凄まじさは、道乾が、自らの信仰の証として、モスクを建設し始めたことからも、充分窺えるのです。 彼は、自分がすでに中国の人間ではなく、パタニに根をおろした、信仰深いイスラム教徒であることを妹に示すため、 当時、王宮が置かれていた、現在のクルーセ村付近に、アラビア・スタイルの煉瓦造りのモスクを建設しました。


 言葉による説得が不可能であることを悟った林姑娘は、自らの命と引き替えに、兄の愚行を妨げようとしました。 建設中のモスクに呪いをかけ、その隣地に高くそびえるカシューの木で、首を吊ったのです。


 モスクが完成すると落雷し、出火するという事故が起きました。そして被災部分を修復するたびに、雷に襲われ、 道乾はついにモスクの工事を断念しました。


 以来、誰かが、モスクの工事を引き継ぐたびに不幸な事故が相次ぎ、結局、最近に至るまで、 このモスクは未完成のまま放置されていたのです。


             
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