林姑娘(リム・コーニオ)は林道乾の妹で、「幼少の頃より、聡明で賢く、文もよくなし、武術にも通じ、かつ器量にも恵まれていた」と、
「林府姑娘事跡」という冊子には描写されています。 |
道乾からの音信が途絶えた母親は、憂いのあまり病に倒れ、姑娘は、看病の日々に明け暮れます。
そして母親が病から回復すると、自らパタニを訪れ、兄の説得に赴くことを決意しました。 |
周囲の反対を押し切り、彼女は船出しました。航海は過酷で、従者9人が、途中で命を落としています。
パタニに着き、兄、道乾に再会した姑娘は、来訪の目的を話し、帰郷を促します。
姑娘やその母親にとって、パタニのような辺境の地で、マレー女を娶り、邪教にうつつをぬかす兄の振る舞いは、理解の範疇を越えていたのでしょう。
しかし、妹がいくら説得しようとも、すでにパタニの地で自らの人生を切り開いた道乾は、応ずることはありません。 |
ここで、ふたりの間にどのような確執が生じたのか、いまとなっては想像するしかないのですが、
その凄まじさは、道乾が、自らの信仰の証として、モスクを建設し始めたことからも、充分窺えるのです。
彼は、自分がすでに中国の人間ではなく、パタニに根をおろした、信仰深いイスラム教徒であることを妹に示すため、
当時、王宮が置かれていた、現在のクルーセ村付近に、アラビア・スタイルの煉瓦造りのモスクを建設しました。 |
言葉による説得が不可能であることを悟った林姑娘は、自らの命と引き替えに、兄の愚行を妨げようとしました。
建設中のモスクに呪いをかけ、その隣地に高くそびえるカシューの木で、首を吊ったのです。 |
モスクが完成すると落雷し、出火するという事故が起きました。そして被災部分を修復するたびに、雷に襲われ、
道乾はついにモスクの工事を断念しました。 |
以来、誰かが、モスクの工事を引き継ぐたびに不幸な事故が相次ぎ、結局、最近に至るまで、
このモスクは未完成のまま放置されていたのです。
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