プロローグ
2
1989年。タイ、ハジャイ。
バーバラ・ライトがサード・ロードの旅社にたどり着いたのは、夕方の5時をまわった頃だ。バック・パックを無造作に放り投げると、ショートパンツを脱ぎ捨てて、清潔そうなベッドの上に身を投げ出した。
ペナンを出たのは昼前だった。チュリア通りのゲスト・ハウスをチェックアウトし、フェリーで対岸のバターワースに渡ると、国際列車に乗って、タイのハジャイにやって来たのだ。途中、パダン・ブサールの駅で国境越えの手続きを済ませると、反対側のプラットフォームでタイ国鉄の列車に乗り換えた。
タイに入ると、彼女は不思議な開放感に襲われた。マレーシアも悪くはなかった。ペナンでは、ノルウェー人の船乗りと、ちょっとしたアバンチュールも経験した。だが、禁欲的なイスラム国家の息苦しさは、国境を出て初めて実感できた。
タイ国鉄の木造列車は、いかにもみすぼらしかったが、乗客や乗員の立ち振る舞いから、自由でルースな気風がうかがえる。旅先のあちこちで知り合った旅行者は、口をそろえて言ったものだ。タイは最高だよ、と。その意味が、なんとなくわかりかけてくる。
ここで彼女は、珍しい密輸のシーンを目撃した。パダン・ブサールを出た直後、列車は突然、野原の中で停車した。子供たちが網棚や座席の下から、手際よく段ボールの箱を取り出している。 荷物は、列車の下で待っていた男たちの手に渡ると、トラックの荷台に納まった。しかるべきことが、しかるべく手順で行われたのだ。列車はそのことだけを確認して、再び走り出した。
僅かの間の出来事だったが、バーバラ・ライトは、この国で、法や規則がどのように運用されているかを知った。
ベッドに横たわり、マリファナ煙草に火を点けた。ハジャイに着くとすぐ、ゲスト・ハウスの客引きから手に入れたのだ。
マレーシアでの禁欲的な日々! 麻薬のことは忘れていた。あのような国では、それがいちばん賢いのだ。連中は、けっして妥協することなんてないのだから。
ふたりの自国人の過酷な運命を、彼女はよく覚えていた。デッチ上げで死刑を宣告された女の子たち。オーストラリアは、国を挙げて抗議していたのだ。それなのに連中ときたら、なんの躊躇も見せずに、彼女たちを死刑台に送り込んでしまった。
マレーシアを出てほっとした彼女は、久々に、マリファナのもたらす陶酔に身を委ねようとした。煙を吸い込むと、頭の芯がくらくらする。それと同時に、下半身の疼きも感じるのだ。ビキニのパンティとTシャツ姿でベッドに横たわっていると、ペナンで会ったタフなマッチョが脳裏をよぎる。
クリスチャンセン! 逞しい、鋼鉄のような腕で抱きしめてくれた。自分の中でうごめく、太くて固い彼の男。ひと突きされるたびに、文字通り天国を見た。
明日は、いよいよプーケットだ。素敵な男に巡り会いたい。ひとり旅の楽しさなんて昼間だけ。夜になれば、狂ったように男が欲しくなる。 彼女は、パンティの上から、敏感な部分に指を這わせた。そして、もう一度、煙を大きく吸い込んだ。
そのとき、ドアにノックの音がした。
「ちょっと待って。」
煙草を揉み消しながら、彼女は叫んだ。
「いま、着替えているのよ。後にしてくれない?」
「警察だ。ドアを開けなさい。」
バーバラ・ライトはパニックに襲われた。不吉な予感に身体が震え出す。 すがるような思いで窓に目をやるのだが、冷たく光る鉄の格子が、彼女に絶望をもたらした。
なすすべもなく、立ちすくんだ。やがて扉が開くと、野蛮人のような顔つきの警官が踏み込んできた。
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