プロローグ
1
1967年。中国、福建省。
紅衛兵に脇腹を蹴られて、男は床にうずくまった。毛沢東語録を振りかざしながら家に押し入ってきた少年たちは、背中のあたりで男の両腕を縛り上げた。男はなにか言おうとして、思いとどまった。この子供たちに、いったい、なにが理解できるだろう? 革命熱に取り憑かれ、暴力こそ正義なのだと教え込まれた子供たちに?
自分や彼らの親たちが、歴史のうねりに翻弄されながら、どれだけ必死に生きてきたのかとか、個人の人生と体制との関係とか、これでほくそ笑むのはいったい誰かなどといった問題を、このこどもたちに諭したところで、どれほど理解できるのだろう?
彼は、少年たちや、文革小組や、革命委員会や、周恩来や、林彪といった者たちの、遙か背後にいる男の顔を思い浮かべた。
どんな時代であっても、人間の生き方などひとつしかないのだ。必死で働いて、ただ生き延びること。家族を思い、祖先を敬い、友と親しく交わること。民国であろうと、共産党の治世であろうと、自分ができるのはそんな生き方しかないのだ。
恥ずべき点はなにひとつないのだ。だが、なぜあの男は、あの赤い皇帝は、人が幸せになるのを許しておけないのか? あの男が皇帝の座についてから流された、あまりに多くの血の量を思って、彼は慄いた。数年前のあの地獄の季節に、飢えて死んでいった幾百万もの同胞。スパイと呼ばれ、辺境の収容所で煉獄の苦しみを味わう男たちよ! 皇帝の血まみれの手の中で革命は奇怪に変貌し、この国のどんな暗黒の時代よりも、さらに多くの魂が終わりなき闇の中で彷徨している。
そんなことを思いながらも、肉体的な苦痛は彼を打ちのめした。傍らでは、別の紅衛兵が妻の身体に馬乗りになっている。 彼がもっとも愛した翠螢の長い髪が、今では非難の対象となっているのだ。少年たちは、持参した鋏で、妻の髪を切り始めた。
徹底した破壊が手際よく終わると、紅衛兵たちは、ふたりに三角帽をかぶせ、「わたしは牛鬼です。」と書いたプラカードを首から吊るして、外に連れ出した。
紅衛兵が出て行った後の家では、ひとりの少女が、台所の床の上で、いつまでも泣き崩れていた。
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