第1章 タイ
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1994年。
ノースウェスト27便がドンムアン空港に着陸したとき、温度計は摂氏29度を指していた。 夕刻成田を発つこの便はバンコクに深夜着く。僅か7時間前まで真冬の日本にいた信也には、真夜中に吹きつけてくるこの熱風は圧倒的だった。
「暑い国へは日本の冬に来るべきだ。」と彼は思う。前回きたとき、東京は異常な猛暑に見舞われていた。 あの暑さから比べれば、雨季のバンコクは、それでもまだしのぎやすかったのだ。 しかしその分、別世界へ足を踏み入れるときの、あのぞくぞくするような感動は薄まっていた。 もともと寒さが嫌いな信也にとって、東南アジアの気候はけっして苦手なものでない。
イミグレーションを出て、バッゲージクレイムで荷物を待っていると、若い女が視線を送ってくるのに気がついた。 空席をひとつおいてすぐ隣に座っていた日本人の女だ。フライトの間中、文庫本に没頭していたのは、一人旅の不安を紛らわすためだということに彼は気づいていた。 警戒されることを恐れて機内では話しかけることもなかったが、赤いサムソナイトをベルトコンベアから取り出した後も、じっと動かずにいるのは、明らかに彼の助けを求めているからだ。 見知らぬ外国の空港で、深夜ひとりでほうり出されて、なりふりかまう余裕を失ったのだろう。
「おひとりですか。」
「ええ。」
ほっとしたように女は答えた。
「誰か迎えの方は。」
「誰もいません。」
厚手のセーターを着込んでいるため、額はすでに汗ばんでいる。熱帯を旅するのは初めてのようだ。 丸い縁なしの眼鏡の奥から彼の助けを求めている。
「ホテルはもう決まっているのですか。」
「ロイヤル・オーキッド・シェラトンです。」
チャオ・プラヤ河畔にたつこのホテルに、信也は一度だけ取材のために泊まったことがある。一流ホテルであるにもかかわらず、いや、それゆえの居心地の悪さを感じた彼は、一泊しただけでカオザン・ロードのゲスト・ハウスに移ったのだった。
「あなたは?」
女がきいた。
「まだ決めてないけど、よく利用する安宿にしようかと思ってました。」
「バンコクへはよく来るのですか?」
「4回目です。」
「そうですか。私は初めてなもので。」
「迷惑でなかったらタクシー相乗りしませんか。」
信也は自分のバッグをベルトコンベアから降ろすと、彼女に救いの手を差し伸べた。
「タクシーって500バーツもするんですよね。」
信也が提案すると、女は初めてほっとしたように笑顔を見せた。
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