イスラム教徒のすべてがファナティックで異教徒に対して非寛容だという偏見には与しないのだが、自らの信仰の場に異教徒が立ち入ることについて、彼らが厳格に拒否している事実を目の当たりにすると、万物に霊が宿るとする文化の中で生まれ育った自分とは、そもそも、信仰そのものに対する認識が根本的に異なっているのだと実感してしまう。
村のモスクを訪れた。建物の中は困るが、外から眺めるのはオーケーと言われていたのだ。敷地の中に入れてもらい、礼拝中の信徒たちを離れたところからそっと眺めていた。しかし、礼拝が終わり、人々がそれぞれの場所に散り始めようとしたとき、誰かが異教徒の存在に気づいたのだ。たちまち、その場に居合わせた男たちに取り囲まれ、詰問をされた。「お前はなんだ。ここでなにをしているのだ?」と。
サイブリ村のモスク
「自分は日本人ツーリストなのだが、タイのイスラム教徒に興味をもっている。許可をもらってここにいるのだ。」と説明すると、急速に誤解は溶けて行き、雰囲気が和らいだ。英語のわかる男が呼ばれて即席のセッションが始まる。
「タイの中でモスリムであることはいろいろと問題があるのではないか。」
「そんなことはない。問題はなにもない。」
「タイ人との関係は?」
「とてもいい。」
「しかしタイ人とは文化も宗教も異なるのではないか。」
「タイ人にもモスリムはいる。」
「就職の機会はどうか。公職にはつけるのか。」
「彼を見ろ。」と指差された方向には制服を着た警官がいる。
「彼もモスリムだが、警察で働いている。」
優等生的な答弁は面白くないのだが、少なくとも神罰を下されるのではないかという恐怖心は薄らいで行く。彼らにとってもイスラムを宣伝する絶好の機会と受け止めているのだ。
この後、何人かの男たちとイスラム食堂で昼食をとり、カンポン内に住むハジ(導師)の家に向かった。イスラムの教義の教えを受けるために。
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