第1章 タイ
19
「ミスター・ノブヤかい?」
下手な英語だった。
「イエス。」と短く、信也は答えた。シャワーを浴びたばかりの髪から、滴がしたたり落ちている。
「スワンニー・ムアンカムについて調べてるんだってな。」
「あんた、誰なんだい?」
「どうでもいいだろう。それより、スワンニーについて話を聞きたくないかい?」
「内容にもよるけど。」
「そっちがなにをききたいかだよ。」
「情報を売りたいのかい?」
「まあな。」
タオルで濡れた髪を拭きながら、電話の相手がどうして自分の存在を知ったのか、信也は考えた。南泰旅行社の女秘書ではないだろう。カトレヤがこっそり情報を売りに出すにしても、それはもう少し後のことだ。彼女ならまず、スワンニーとのインタビューに立ち会って、こちらのはらを探るだろう。
残るのは、クレージー・スポットのアリサしかいない。電話の男のやくざな口調から判断すれば、アリサのほうが結びつきやすい。アリサのヒモか身内の誰かが、なにかのおりに不審な日本人の話を聞いたのだろう。
「話によっては、金を払うよ。」
信也はあっさり答えた。
「いつ、どこに行けばいい?」
「ナサタニー・ロードはわかるか?」
「いや。」
「駅前の通りだよ。」
「オーケー、地図を見るよ。」
「ナサタニー・ロードを駅から北に少し歩けば、ガード下の屋台にぶつかる。どこかの屋台に腰かけて、メコンでも飲んでろ。8時に会おう。」
「あんたをどうやって見分ける?」
「俺があんたを見分けるよ。色男の日本人が屋台でメコンを飲んでいれば間違えるわけがない。」
「名前だけでも教えてくれないか。」
「会ったときに教えるよ。とにかく8時に会おう。」
一方的に電話は切れた。時計に目をやると、夕方の5時前だ。ソーイと奈津子の顔が頭に浮かんだ。ふたりに会う時間はたっぷりあるし、南海酒店は目と鼻の先だ。
信也は、尾行の可能性を考慮に入れて、南海酒店までの複雑なルートを考え始めた。この危険な街で、ふたりの存在はどうしてもふせておかなければならないのだ。
20
タイ国鉄の南本線は、バンコクからシンガポールまで二泊三日で結んでいる。途中、二度の乗り換えはあるものの、二本のレールが、タイ、マレーシア、シンガポールの三国を結んでいるのだ。東南アジアの、この国際列車は人気が高く、信也自身、前年に、この列車を乗り継いでマレー半島縦断の旅をしている。
彼はいま、かつて自分が利用した鉄道の線路下の屋台で、チキン・サティを肴に、タイ産のウィスキー、メコンを飲んでいる。8時を過ぎても相手はこない。時間に関してはおおらかなタイ人のことだ。多少の遅れはしかたない。
いままでに何度も彼は、アジアのこうした屋台で、現地の酒や食事にありついてきた。多くの日本人ツーリストは不潔さゆえに嫌うのだが、旅好きの信也にとっては、夜の路上に繰り出す屋台こそ、アジアの旅の醍醐味なのだ。熱帯の湿った空気に浸りながら、現地の酒を飲む楽しみはなにものにも変えがたい。
しかし今夜は特別だった。旅情に浸ってるわけにはいかないのだ。二日前、ノースウェスト機内で奈津子に会ってから、事態は思いがけない方向に進んでいる。興味本位に運んできたことが、とんでもない波紋を引き起こしているのだ。
二杯目のメコンを口にした。背後が騒々しい。信也は、おもむろに振り返った。
一人の男が、フラフラになって歩いてくる。チンピラ風情の、貧相な小男だ。崇高なところはなにもない。生まれついてのヤクザ者。詩的正義とか人間の尊厳だとかとは、いっさい縁がない。なにもなさず、なにかに寄与することもない。ただただ惨めに死んでいくために生まれてきたのだ。
信也は男の表情から、そんなことを見てとった。屋台の客たちが、立ち上がり、男の背中を凝視した。頼りない、不確かな足取りで歩いてる。死神が歩いて来るようだ。
来ないでくれと、信也は祈った。叫びたい気持ちをかろうじて押さえ、ゆっくりと腰を上げた。彼の祈りがつうじたのか、男は屋台の近くで力つきた。倒れた背中には、深々とナイフが突き刺さっている。
「この男だな。」
信也は直観した。周りの客たちに混じって、瀕死の男の傍らに歩み寄った。若いというふうではない。擦り減ったポロシャツを着て、カーキ色のズボンをはいている。シャツの下から、血が滲み出ている。刺されて、間がないようだ。
誰かが男を抱きかかえ、励ましの言葉を叫んだ。男は目を開き、覗き込んでいる客たちの、ひとつひとつの顔を追い始めた。血の気は失せ、表情も虚ろだ。最後の力を振り絞り、彼は信也を認めた。死に行く前に、何かを信也に伝えようとしている。
「ガウ・・・」
かすれた声で、男は最後の言葉を発した。
「ガウ・・・ロン」
「ガウロン?」
「ヤン・・・、ヤン・・・、ラン・・・、ファン」
「どういう意味だ?」
信也がきいた。しかし、もう一度、「ガウロン」と繰り返して、男は、こと切れた。
信也に情報を売ろうとした男は、そのことゆえに殺されたのだ。
21
男が死ぬと、信也は、そっとその場を離れた。信也を見つめる眼差しから、電話の相手であることは間違いない。こときれる前に、「ガウロン」、「ヤンランファン」という言葉を残した。つまり、その言葉が彼の売ろうとした情報なのだ。
英語ではないようだが、タイ語となると皆目わからない。ソーイに判断してもらうしかないだろう。事件の現場から離れると、偶然見つけたインディアン・レストランに入り、レジの女に小銭を渡して電話を借りた。ハジャイでは、街のどこにも公衆電話があるというわけではない。
ハジャイ・ロイヤルは危険だった。敵方の本拠地なのだ。密会が漏れたのも、電話を盗聴されてたからに違いない。
南海酒店のソーイに経緯を話した信也は、クレージー・スポットに足を運んだ。男と信也を結ぶ線は、クレージー・スポットの娼婦アリサだ。男が死んだいま、鍵を握るのは、アリサしかいない。彼はクレージー・スポットに足を踏みいれた。あい変わらず気違いじみた熱気が充満している。
「また、あなたね。」
アリサを割り振った女がやってきた。
「昨夜はどうでした?」
「最高だった。」
「よかった。今夜もきてくれたのね。」
「ああ。」
「この店に足を踏み入れると,たいていの男はやみつきになるみたい。」
「だからクレージー・スポットっていうんだろ?」
「そうね。たしかにそうだわ。」
女はクスクスと笑い出した。
「ねえ、アリサにもう一度会いたいんだ。」
「アリサに? よほどよかったのねえ。」
「あんないい娘は初めてだ。」
「この店の娘はみんなそうよ。」
「君の名前はなんていうだんい?」
「キャッシー。」
「ねえ、キャッシー。」
「なあに?」
「アリサに会いたい。」
キャッシーは軽くため息をつくと、つくり笑いを浮かべた。
「クレージーだわ。この店にピッタリね。」
「僕はクレージーだ。気が狂うくらいアリサに会いたい。」
キャッシーはポシェットからシガーを取り出すと、深々と煙りを吸い込んだ。
「ごめんなさい。今日は、休みなの。別の女の子がいるわ。」
「休んでるって?」
「このビジネスはいつでもできるというわけではないのよ。わかるでしょ? 女には、月に何日か、休暇をとらなければいけない日があるのよ。」
「でも、今朝は平気だったのに。」
「あれは突然くるものよ。」
「それでも彼女に会いたいんだ。セックスはなくてもいい。ただ、いっしょにいたいだけだ。」
キャッシーは、うんざりしたようにため息をついた。
「子供じみたことは言わないで。」
「どこにいる? お金は出すよ。」
「そういう問題ではないのよ。常識というものがあるでしょう。ビジネスとプライバシーをいっしょにしてはいけいないわ。女が欲しいなら、お金を払って他の子を探してよ。そうでなかったら、おとなしくお酒だけ飲んでなさい。」
どうやら本気でアリサを隠しとおすようだ。いくら粘っても、居所はわからないだろう。恐ろしい用心棒が出てくる前に、信也はクレージー・スポットをあとにした。
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