第1章 タイ

 
22

 ハジャイの表通りは夜が早い。9時を過ぎると商店はシャッターを降ろし、露店商たちも通りから引き上げる。信也はめっきり人通りが少なくなったサードロードを、ハジャイ・ロイヤル・ホテルに向かって歩いている。ときおり、美しく着飾ったゲイたちが、傍らを通り過ぎる。東南アジアの街にはなぜかゲイが多い。

 歩きながら、混乱した思考をまとめようとした。連中はなぜアリサを隠すのか。昨夜のアバンチュールからなにも引き出すことはできなかった。彼女のガードは固く、スワンニーに関する情報はなにひとつ得ていないのだ。

 そもそも信也は、なにも期待していなかった。アリサに接触することで、スワンニーの周りにさざ波を立てようとしただけなのだ。信也にとっても相手にとっても、アリサは意味のない捨て石なのだ。

 問題はあの男だ。殺されるほど情報を握っていて、アリサはなにか感づいていた。男を消せば、次に打つ手はアリサだろう。こちらが接触する前に、てっとりばやく彼女を隠したのだ。あるいは、危険を感じた彼女が、先手を打って身を隠したことも考えられる。

 アリサ、おまえはいったいどこにいる?

「おい、おまえ。」
突然呼び止められた。目の前に、ふたりの警官が立っている。

「どこへ行く?」
「ホテルへ。」
「どこのホテルだ?」
「ハジャイ・ロイヤル・ホテル。」

ふたりの警官はタイ語でなにか話し合っている。ひとりは背が高く、ひとりはムエタイのボクサーのように小柄で精悍だ。

「おまえ、麻薬持ってないか?」

 信也は不吉な予感に襲われた。何年か前、バンコクの安宿でマリファナを吸っていたとき、突然警官に踏み込まれたことがある。逮捕を免れるため、彼は、有り金のすべてを支払うことになった。売人と警官がグルになって、簡単に信也をはめたのだ。

「いいえ。」
彼は答えた。
「もう一度きく。おまえ、麻薬は持っていないか。」
「いいえ。」

信也が繰り返すと、小柄なほうの警官が突然信也の左の頬を激しく打った。強烈なショックとめまいで、彼はその場にしゃがみこんだ。

立てと言われて、信也は立ち上がった。
「本当に持ってないんだな。」
「持ってません。」
「日本人か。」
「ええ。」
「パスポートを見せなさい。」
「ホテルに置いてきました。すぐ近くだから、いっしょに来てもらえればお見せしますけどね。」
「とにかく署に来なさい。そこでゆっくり話を聞こう。」
「待ってください。」

彼は札入れを取り出し、500バーツを差し出した。
「もしよかったら。」
「買収しようと言うのか。」
「いえ、そういうわけでは。」

 信也は失敗を悟った。背の高い方の警官が、膝を警棒で強く打ったのだ。あまりの激痛に文字どおり彼はもんどりうった。しばらくの間、打たれたほうの膝を抱えて、コンクリートの舗道に横たわっていた。

 なにかがおかしかった。警官の出方が偶然とは思えない。こんな形で、通行人に暴行を加えるなんて、狂気の沙汰だ。まともじゃない。

「立ちな、坊や。」
やっとの思いで、彼は立ち上がった。膝を打った警官は、無表情のまま彼の腕をつかんだ。
「よし、署に行こう。」
面倒なことになったと、信也はため息をついた。



23

 警察署では2時間近く取り調べを受けた。不思議なのは、拘束の理由があいまいなことだ。取り調べの刑事でさえ、なにをきいていいのかわからないようだ。第三世界に属する国の警察で、夜遅く、ひとりで取り調べを受けるのは、けっして楽しいことではない。

 彼はしばし、南海酒店のソーイに電話をかけたくなった。もっとも、電話をすれば、その瞬間から、ソーイと奈津子の存在が明るみに出て、彼女たちに危険が及ぶ。

 そういうことかと、信也は相手の意図に気がついた。連中は、うすうすとパートナーの存在に気づいている。信也を連行したのは、ソーイと奈津子をあぶり出すためなのだ。夜遅くまで麻薬不法所持容疑で絞り上げれば、いずれは音を上げて、連絡をとるに違いない。

「電話をしたいんだけど。」
信也は、若い刑事に切り出した。カセムサンという名で、流暢な英語を話す。
「誰に?」
「バンコクの日本大使館に。」
「大使館は相手にするものか。」
「大使館が決めることさ。僕はフリーランスのライターで、いくつかの雑誌に記事を書いている。その中には、政府関係の広報誌も入っていて、政府筋には多少の顔もきくんだ。バンコクから東京に電話が入れば大騒ぎになるだろう。」
「脅すのかい? 確かに、日本からは援助を受けているけど、タイは主権国家だ。犯罪人を自ら裁く権利はもっている。日本大使館だろうと日本政府だろうと、このことに関してできることはなにもないぞ。おまえを裁くのは俺たちで、連中じゃあない。」
「裁くのは裁判所で、あんたじゃないよ。裁判所で有罪を立証できるのかい?」
「立証するさ、おまえが有罪ならばね。」

 立証するだろうと思って、信也はぞっとした。ホテルの部屋を捜索し、バッグの中にマリファナ煙草をしのばせるだけでいい。どこの警察もやっていることだ。でっちあげに関しては実に多くの前例を、世界中の警察が残しているのだろう。

「それにしても、弁護士を雇う権利ぐらいはあるんだろう? 日本大使館に頼んで、適当な弁護士を斡旋してもらいたいんだよ。なにも大使館をとおして圧力をかけようというわけじゃない。」
「弁護士も大使館員もまだ寝ているよ。電話をかけたいんなら朝まで待ったほうがいい。」
「それはないだろう。」

 信也が反論しかけたとき、あたふたと中年の男が入ってきた。褐色の肌をした精悍な男だ。背が高く、薄い色のついた眼鏡をかけている。若いほうの刑事と男は、信也の存在も忘れて熱心に話し合っている。ときおり、ノブヤという言葉と、コン・イープン(日本人)というタイ語が聞こえてくる。

 20分もの間、二人は話し続けた。内容はわからないが、信也について新しい情報が入ったらしい。

「きみがミスター・ノブヤかね。」
中年の男がきいた。髪は薄く、鼻の下に髭をたくわえている。 しかし、信也に対する態度は悪くない。
「イエス、サー。」と、彼は答えた。
「警視のソンポルだ。」
「インディー・ティー・ダイ・ルージャック・クラッ(お目にかかれて光栄です)。」
「おおまかな話はカセムサンからきいた。本当に麻薬を所持していたのかね。」
「していません。嘘だ、そんなこと。」
「まあ、いい。そのことは後で話そう。」

 ソンポルは、マールボローに火をつけて、深々と煙りを吸い込んだ。
「ところで、君は、今夜8時頃、どこにいた?」







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