第1章 タイ

 
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 日本人ジャーナリストの電話を受けたカトレヤ・ワティークルは、軽い興奮を覚えた。娼婦アリサの話をスワンニーに報告し、素性を探れという指示を受けたばかりなのだ。
 信也と名乗る日本人は、正規のルートを踏んでスワンニーのインタビューを申し込んできた。カトレヤは、一時間後にオフィスにくるよう信也に指示し、受話器を置いた。



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「スワンニーはこの地方ではとても有名な女性です。知らない者はないと言ってもいいでしょう。それはなにも彼女が、タイ南部で一番の金持の夫人だからということではなく、彼女自身の社会的な影響力によるものです。

「彼女はハジャイ・ロイヤル・ホテルの系列会社、南泰旅行社を発展させ、マレーシアにまで進出しました。タイ国内でも、サムイ島やプーケットに投資をし、ラヨーンの開発にも積極的にコミットしています。ハジャイとソンクラーに、五つのレストランをもっていて、建設業界やバス会社の株式も保有しています。

「彼女はまた、慈善家としても有名で、身体障害者の施設に大口の寄付をしています。毎年、子供の日には、孤児たちのためのチァリティ・バザールを主催して、収益を孤児院の建設に充てました。

「スワンニーはタイ南部の女性経営者たちを組織し、そのリーダーになりました。彼女の影響力は、軍や警察にまで及んでいます。事実上、彼女は、この地方の女王なのです。」

 ヴァラポン・シララターナは、南海酒店の一室で、スワンニー・ムアンカムに関する情報をソーイに与えていた。彼女の妹がチュラロンコーン大学で、ソーイの学友なのだ。ヴァラポン自身は、ハジャイで、銀行家の秘書をしている。

「スワンニーはまだ若く、30代後半といったところです。しかし、その若さで、マフィアの世界にまで触手を延ばしています。これは公然の秘密となっていますが、タイ南部の売春組織のほとんどに、スワンニーの息がかかっていると言われています。観光業界と売春組織とは、お互いもちつもたれつの関係にあるので、これは、まあ自然の成り行きなのかもしれませんが。

「出自については、あまり多くは知られていません。福建省出身で、本名は林美麗(リム・メイリー)。十代のとき、大陸から香港に逃がれ、20年ほど前、同郷の李華明(リー・フォアミン)を頼ってハジャイにやってきました。李の秘書をしていたのですが、実態は愛人というか、第二夫人だったようです。2〜3年して、李の正妻が死ぬと、いつのまにか本妻に昇格していました。

「李本人は70を超した老人です。第二次大戦前にタイに移住し、鉱山労働者からタイ南部で一番の実業家にまでなりました。タイ人と結婚し、五人の子供をつくり、完全にタイ人化したのですが、本国との絆はいまだに続いているようです。」

「スワンニーと麻薬組織との関係は?」
ソーイがきいた。

「聞いたことはありません。真相は不明でしょうけど。売春と麻薬とでは重みが違いますから、麻薬シンジケートと関係をもっていたとしても、簡単には探り出せないはずです。少なくともいままで、麻薬シンジケートとの関係が噂されたことはありません。」
「日本人失踪事件の鍵を握っていると私たちは信じているのですけど、そのことでなにかご存じのことはありませんか。」
「残念ですけど、なにも知りません。」
「モスリムたちとの関係については?」
「この地方に住んでいる限り誰であれ、モスリムと無関係ではありえません。なにしろ一部の地域では、人口の5人に4人以上がモスリムなのですから。」
「特に彼女が深いかかわりをもっていたということは?」

「そうですねえ。」と言って、ヴァラポンは考えていたが、
「チャリテイ活動の一環としてモスリムの集落の居住改善に取り組んでいました。県と住民との間に立って、道路の建設や水道の敷設などを促進したり、タイ語教育の普及に力を入れたりということです。
 それから、最近はビジネス面でもマレー人居住地の開発にも取り組んでいたようです。ペラク村という海岸沿いの漁村を開発して、国際的なリゾート・ビーチにしようという計画です。この計画を進めるためには、マレー人たちとの関係をどう調整して行くかがポイントになるでしょう。そうした意味で、確かに彼女は、モスリムたちと特殊な利害関係をもっていると言えるかもしれません。でも、日本人の失踪とどう結びつくのか、私にはよくわかりません。」

「ありがとう。あなたのお話はとても参考になりました。」
ソーイは、胸の前に手を合わせて合掌した。

「もしかしたら、また助けていただくようなことがあるかもしれません。」
「そのときは、電話をしてください。私にできることならなんでもしますから。」

 ヴァラポンは銀行家の秘書をしているだけに、情報はたくさんもっていた。それになにより、明晰な頭脳をもっている。彼女が帰ると、ソーイは、話を要約して奈津子に語り始めた。



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 カトレヤは、いましがた部屋に入ってきた日本人を、ファックスごしに観察した。思っていたよりずっと若いし、ハンサムだ。彼女の知ってる日本人ときたら、こっすっからい鼠のようなビジネスマンか、金持ちだけど隙だらけのツーリストのどちらかだ。ジャーナリストにしてはすれた感じがしないが、知的能力は充分にありそうだ。クレージー・スポットの娼婦の報告がなければ、取材の申し込みにもすんなり応じたことだろう。この日本人は、なにか特別な目的をもってここへきたのだろうか。

「ご存じだと思いますけど」と、日本人は切り出した。
「いま日本ではちょっとしたタイ・ブームで、南部のリゾート・ビーチが大きな話題を呼んでいます。プーケットへの直行便も増便されたし、サムイ島もポピュラーになってきました。タイ特集を組んだ旅行雑誌はすぐに売り切れてしまうし、東京のタイ・レストランはいつでも満席です。」
「なるほど。」
「僕自身、プーケットやサムイ島の記事は何度も書いてきたので、あらためて取り上げるつもりはないのですけど、南部地方そのものにはずっと興味を抱いてきました。この地方には、単なるリゾート・ビーチ以上の魅力的な観光資源があると思っています。」
「例えば?」
「タイ南部の風景は、とてもエキゾチックに映るんですよ。青い空に向かってそびえ立つモスク。白いチャドルに身を包むモスリムの女性。ここにはバンコクやチェンマイにはない異国情緒があります。日本人には、仏教寺院よりイスラム・モスクのほうが、目新しい分だけ旅情をそそるわけなんですよ。パタニ、ソンクラー、ハジャイは、日本人ツーリストにとって処女地であると同時に、プーケットやサムイから非常に近い位置にあります。非常にポテンシャルな地域であるにもかかわらず、国際的な観光資本は、いまのところプーケットで手いっぱい。
 地元資本である南泰旅行社のスワンニーさんが、このあたりの観光開発にどういうプランをもっているのかおききしたいというわけなんです。」

 筋はとおっているわと、カトレヤは感心した。彼女は、信也が記事を送るという雑誌社の名前と発行部数を確認した。南泰旅行社は直接日本にコネはないが、同業者を通じてのチェックは可能だろう。とりあえず男の話に破綻はないようだ。アリサの件さえなければ疑う余地はなかったのに。

彼女は、後刻電話するという約束を与えて、信也を帰した。







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