第1章 タイ

 
13

「ジュース、飲んでいい?」

 中国人の若い娼婦は、信也の部屋に入ると冷蔵庫の扉を開けて、オレンジ・ジュースを取り出した。

 奥深くまでスリットの入ったチャイナ・ドレスを着けて、意外と趣味のいい香水の香りをふりまいている。

「あなた、日本人のビジネスマン?」
「まあね。日本人はたくさん来るのかい?」
「ビジネスマンはね。観光客はあまり来ないわ。来ても、なんにもないでしょ? みんなプーケットやサムイ島までね。観光で来るのはマレーシア人だけだわ。イスラムの国で戒律が厳しいから、週末になるとここへ来て、酒を飲んだり女を買ったりするのよ。普段抑圧されてるせいか、ほんとにスケベなの。」
「僕もスケベだよ。」
「男はみんなそうよ。でも、日本人て紳士ね。お金もたくさんもってるし。」
「僕はそんなにもっていないけど。」
「いいのよ。金額は聞いたでしょ? それで充分だわ。それにあなたはきれいだし。あたし、セックスは嫌いじゃないけど、醜い男とやるのはいやなの。お金のためと割り切ってはいるけど。ここへ来る客はみんな醜いわ。ろくでもないのばっかりよ。あなたみたいなきれいな人って、初めてだわ。」

 アリサと名乗る女は、オレンジ・ジュースを飲み干すと、紫色の営業用のチャイナ・ドレスを脱ぎ捨てた。白い肌のごく一部を、かろうじて黒のブラジャーとパンティーが覆っている。

 信也は思わず生唾を飲み込んだ。昨夜、ソーイを裸にしかけたところで、奈津子に邪魔をされたのだ。そのときの欲望が、不完全燃焼のまま残っている。しかし一方で、隣の部屋で、壁に耳を押し付けて中をうかがっているソーイと奈津子のことも気になるのだ。

「ねえ、どうしたの?」
信也が動かないのを見て、アリサがたずねた。彼は椅子に深々と腰を降ろしたまま、シンハービールを飲んでいる。

アリサはブラジャーとパンティーも脱ぎ捨てると、ベッドの中に入っていった。

「ねえ、早くして。あなたに抱いてほしいのよ。」
信也は立ち上がって、ベッドサイドに近づくと、ツイン・ベッドのもうひとつのほうに腰掛けた。

「ごめんよ、アリサ。できないんだ。」
「どうして?」
「隣の部屋でワイフが寝てるんだよ。」
「なんて言ったの?」
「隣の部屋でワイフが寝てるんだよ。新婚旅行のさいちゅうなんだけど、喧嘩して、今夜は別の部屋をとったんだ。むしゃくしゃして、その勢いで君を買ったけど、ワイフのことを考えると、やっぱり、ここで君とはできないよ。」

アリサは毛布の下でためいきをついた。

「そう、それで?」
「君とメイク・ラブはできないけど、なかよくお話をしたいんだ。」

中国人娼婦はベッドの中で、傷つけられたプライドと、金のために身売りしたという現実との折り合いをつけるため、しばらく内面で葛藤していた。

「そうなの? 残念だわ。あなたに抱いてほしかったのに。」
「ごめんよ。僕も抱きたいんだけどね。」
「こういう仕事していると、お客のいうことはなんでもきかなきゃいけないのよ。ドイツ人と寝るときは、つらいことが多いけど、お金のために我慢しているの。それから比べれば、あなたはずっとましだわ。それで、どんな話がしたいというの?」

信也は、シンハービールを飲み干すと、アリサの近くに身体を寄せてささやいた。

「スワンニー・ムアンカムについて、話したいんだけどね。」



14

 カトレヤ・ワティークルはオフィスの椅子に深々と腰を埋めて、オーストラリアからのファックスに目をとおしていた。シドニーとの商談の見通しは、彼女の雇用主、スワンニー・ムアンカムを喜ばすだろう。シドニーは、ハジャイの示した条件に承諾の意向を示してきた。

 スワンニーは最近、シドニーとの提携にエネルギーを注ぎ込んできた。年に三度もオーストラリアに飛んで、精力的にビジネスをすすめてきたのだ。この話がうまくいけば、世界に飛躍するきっかけをつかむだろう。プーケットという晴舞台で、国際資本と提携してリゾート・ホテルを建設するのだ。うす汚れたヒッピー相手に、ピーピー島ツアーを斡旋していたころとはなんという違いだろう。

 カトレヤは、かき氷のたっぷり入ったペプシ・コーラをすすりながら、もう一枚のファックスに目をとおした。ランカウイ島開発に関するクアラルンプール支社からの報告だ。ペナンのすぐ北にある将来有望の新興リゾート・アイランドは、ハジャイから目と鼻の先なのだ。ペナンやマラッカを訪れるタイ人ツーリストの増加や、ランカウイ島開発への参入のおかけで、南泰旅行社のマレーシア進出も着実に進んでいる。

 タイ湾の方角から湿った風が吹いてきた。長かった雨季が終わり、めまいのするような酷暑まで、つかの間の平和の時期だ。スワンニー・ムアンカムの女秘書は、眼鏡をはずし、まぶたを軽くマッサージした。

 今日はもうひとつ、いいニュースが入っている。県の観光局から連絡があったのだ。知事がペラク村視察に乗り気になってるという。ペラク村開発に県の補助金が導入されれば、観光資源の乏しい国境付近一帯で、初めて大規模プロジェクトが実現するのだ。

 スワンニーへの報告事項をピックアップしているカトレヤにとって、今日は、完璧な一日になるかもしれない。

 椅子を180度回転させた彼女は、窓の下に映るサードロードの人混みを眺め、しかし、さざ波のように押し寄せてくる不安定な感覚に気づいていた。なにかが気持ちの奥にひっかかっているのだ。デスクの上に置かれた朝刊に目をやったとき、彼女は気持ちを揺さぶる原因に思いあたった。

 パタニ近辺のテロ騒ぎだ。分離独立主義者が、新しいテロを準備している。イスラム教徒が人口の80パーセント以上を占めているこの地方で、この問題は避けて通れない。イスラム教徒をどう融和させていくのか。開発の中に彼らをどう取り込んでいくのだろうか。タイの経済成長に伴って過激なテロ活動は徐々に沈静化しているが、モスリムとの完全な融和はまだまだ先のことだろう。

 もうひとつ、気になるのは、クレージー・スポットの娼婦アリサの話だ。アリサを買った日本人が、スワンニーに興味を抱いている。適当に話を合わせた彼女は、不審な日本人が、実はフリーランスのライターだということを聞き出していた。その男は、いま、カトレヤと同じビル、つまりハジャイ・ロイヤル・ホテルの一室にいる。

 しばらく迷ったカトレヤは、この一件をスワンニーに報告することにした。



15

 南海酒店は、サードロードがプラチャピタット・ロードと交わる十字路に建っている。ハジャイ・ロイヤルと並んで、この地方では有数の一流ホテルだ。ソーイと奈津子は、信也から離れてこのホテルに移っていた。ハジャイ・ロイヤルは敵の本拠地なのだ。信也が中国人娼婦に接触したことで、敵は信也の存在に気づくだろう。ソーイと奈津子は、姿をかくしておくほうがいい。

 その南海酒店の一室で、日本からのファックスに奈津子は格闘していた。川本耕介の論文の要約をソーイのために英訳しているのだ。彼女のかつての家庭教師は、タイ南部のイスラム教徒に興味をもっていた。タイ人やタイ社会と融和せず、長い間、独自の文化やイスラムの教義を守り続けたモスリムたちが、タイの経済成長とそれに伴う開発政策にどう反応しているかが、耕介の研究テーマであった。

 不思議なことに、初めて奈津子は、耕介の研究領域に興味をいだいたのだ。マレー半島に拡がるタイ南部の四県は、もともとマレー人の土地であり、アユタヤ王国の拡張とともにタイの領土に編入された。そのため、人口の80パーセント以上がマレー人、つまりモスリムで、彼らは仏教徒であるタイ人と実質的に交わらず、固有の文化と生活様式を守り続けている。タイ人の支配に満足せず、分離独立の意志が強い。

 1970年代に、マレー半島内のタイ領土に運河を通す計画が検討された。マレー半島を横断して、インド洋と南シナ海を直結しようという計画だ。これにより、ふたつの海が、マラッカ海峡を通らずに結びつく。しかし、タイ政府はこの計画を諦めた。マレー半島の分断が、分離独立運動に拍車をかけることを恐れたのだ。

 マレーシアから逃げてきたマレーシア共産党や、タイ共産党のゲリラ活動、ベトナムからのボートピープルを狙う海賊の暗躍などにより、この地方はタイ国内でもっとも治安の悪い地域だった。

 しかしマレーシア共産党の投降や国際共産主義運動の敗退、それになにより、タイの経済成長の成果が地方都市にまで及ぶに至り、状況は好転している。タイ人は、成長の果実をモスリムたちにも分け与え始めたのだ。

 川本耕介は、マレー人居住地に対する地域開発の、社会学的な意味に興味を抱いていた。電気や水道敷設による基盤整備、あるいは産業振興により、伝統的なマレー社会がどのように変貌していくのか。川本は、いくつかの具体例をひいて、タイ人たちのマレー人融和政策と、タイの中のマレー社会の将来性を論じていた。

 奈津子はその中のひとつ、タイ資本によるペラク村開発の一項に注目した。タイ湾沿いの寒村、ペラク村に、タイ国内のイスラム運動の中心となるイスラム・センターを整備する。 それに併せて、ペラク・ビーチにリゾート・ホテルを建設するという観光開発の大規模プロジェクトだ。 このプロジェクトを推進している南泰旅行社のオーナーこそ、まさにスワンニー・ムアンカムだったのだ。









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