第1章 タイ

 
11

   TG255便は、真昼の光を浴びて銀色に輝くマレー半島に、弧を描きながら降りて行った。朝、ラヨーンを発った三人は、ソーイのランサーでバンコクに帰ると、タイ南部の街、ハジャイ行きの飛行機に飛び乗ったのだ。 三人の間には重苦しい空気がたちこめていた。奈津子は、ハジャイ行きについては、信也とソーイの同行を断った。しかし、信也は奈津子をほうり出す気にはなれなかった。ソーイとの関係を考えれば、賢い選択ではないのだが、彼の中にはドンキホーテ的な性格が潜んでいるようだ。

 ソーイはソーイで、信也と奈津子をふたりきりにすることができなかった。彼女にはよくわかっていた。奈津子は信也に気があるのだ。

 昨夜奈津子は、ソーイがいなくなったと騒ぎながら、ベランダから信也の部屋に入ろうとした。勿論、ふたりの邪魔をするために。奈津子は奈津子で、寝たふりをしながら自分が寝入るのを待っていたのだ。 

 信也との関係の中に思いがけず飛び込んできた障害にとまどい、燃焼しそこなった欲望の残滓に押しつぶされて、無言のまま、ソーイは窓際のシートに座り続けていた。

  
☆          ☆


 飛行機は軽快なフットワークでハジャイ空港に着陸した。ハジャイは、マレーシア国境に近いタイ南部最大の都市だ。多くのマレー人と中国人を抱えていて、安価な密輸品が街中に出回っている。ハジャイはまた、歓楽街としても有名で、ホテルのメイドの数よりも売春婦が多くいると言われている。ハジャイという名前には、売春と密輸、という怪しいけども誘惑的な響きが含まれているのだ。

 飛行場から三人は、小型トラックを改造したミニバスで市内へ向かい、ハジャイ・ロイヤル・ホテルにチェック・インした。スワンニー・ムアンカムの夫、李華明(リー・フォアミン)傘下の一流ホテルだ。

 ここでも、奈津子とソーイは部屋を共用することにした。お互い、信也へのぬけがけを恐れているのだ。シャワーの後、三人は信也の部屋に集まった。

「飛行機の中で考えていたんだけど、」と、ソーイが口火をきった。
「わたしたちがやろうとしていることって、とても危険なことなの。スワンニーと彼女の夫は、この街を支配しているといってもいいのよ。」
「アンタッチャブルに手をつけるのか。」
信也は、小さくため息をついた。
「ねえ、信也、あなた、奈津子のボーイフレンドのために危険をおかす用意はある?」
「ボーイフレンドじゃないわ。何度言えばわかるの?」
奈津子はキッとして言い返した。しかしソーイは気にもしない。

「社会的な名声や地位もあるし、慈善家としても活発に活動している人だから、いきなり極端なことはしないと思う。でも、タイの社会って複雑で、表向きは篤志家として名声を得ているような人が、裏ではマフィアの世界とつながっているなんてことも多いのよ。」
「それは日本でも同じだよ。汚れた金の一部をチャリティに回すことで、ブラック・マネー全体のロンダリングができると思っているんだ。
 それから、君の質問に対する答えだけど、イエスだよ。多少の危険は覚悟のうえさ。でも、君と奈津子に危ない橋を渡らすわけにはいかないな。」
「わたしだって覚悟はできているわ。」
奈津子が反論した。
「耕介さんがわたしのボーイフレンドだからではなく、これはそもそも、わたしがまいた種なのよ。ふたりに迷惑かけて、わたしだけ安全な場所にはいられないわ。」
「あなたには、別にやってもらいたいことがあるのよ。」
「なあに?」
「あなたのボーイフレンドの大学の先生にコンタクトはとれる?」
「ここから?」
「できるだけ早く。」
「大学に電話をすれば、担当教授はすぐつかまるわ。タイと日本の時差はどのくらい?」
信也にきいた。
「日本のほうが二時間早いから、今、東京は午後五時頃だよ。」
「ぎりぎりだわ。」
腕時計に目をやると、奈津子は受話器をとって、オペレーターを呼び出した。

「うまくつかまるといいんだけど。大学の先生には、なんて言えばいいの?」
「あなたのボーイフレンドの研究資料をファックスで送ってもらえるかしら。最近の論文のサマリーかなにかでもいいわ。」
「論文を?」
「役に立つかどうかはわからないけど、彼の関心領域と失踪との間に因果関係があるとすれば、なにを研究対象としていたのか知っておくべきだと思うの。」

オペレーターが出て、奈津子は用件を告げた。



12

 ハジャイの街は、昼と夜とでまったく別の顔をもっている。昼間は、くすんだ色の、騒々しいけど特徴のない地方都市で、タイの旅に慣れた旅行者にとって、ハジャイは単なるマレーシアへの中継地点だ。

 いま信也は、ハジャイの夜の街を歩いている。ハジャイの夜は、なによりもまず刺激的だ。街角のいたる所に繰り出す露天商は、東南アジアでは珍しくもないが、マッサージ・パーラーやバーのネオンの周りには、タイ人やマレー人や中国人やインド人の男たちの欲望が渦巻いている。

 ハジャイは今世紀に入って発展を始めた、新興の商業都市だ。ここ10年間の繁栄ぶりは特に目覚ましい。この繁栄の基礎にあるのが、売春と密輸なのだ。

 信也は、ニパット・ウティット・サードロードを南に下り、マナスルーディー・ロードの手前の路地に入って行った。路地の両側には小さなバーが密集している。彼はその中の一軒に足を踏み入れた。クレージー・スポットという名のストリップ・バーだ。狭いフロアの真ん中に小さなステージがあり、裸の女たちが七、八人、テープの音楽に合わせて踊っている。ステージを取り囲むようにカウンターがめぐり、男たちがビキニの女を膝に抱いて、ウィスキーを飲んでいる。バンコクやプーケットのように外国人ツーリストが多く訪れる場所ではお馴染みの光景だが、ハジャイでは珍しい。ハジャイの国際化の兆しなのだろうか。

 小さなバーの、ひとかたまりの空気の中に、欲望が凝縮されて、弾けそうになっている。熱帯では大気そのものが濃密なのだ。むせかえるくらいに密度の濃い空気を吸い込んで、男たちは、理性の薄皮をはがしていく。

 信也はボックス席に腰掛けた。すぐに、スーツ姿の女がやってくる。カウンターの上のダンサーやホステスたちと比べると、はるかに美人で賢そうだ。

「メコンを水割りで。」
信也は安物のウィスキーを注文した。
「日本人?」
「ああ。」
「ビジネスで来たの、それとも休暇?」
「ビジネスだよ。」
「ひとり?」
「ああ。」
「それは寂しいわね。今夜はタイのガールフレンドとメイク・ラブしたくて、ここへ来たのね。」
「いい娘がいるかい?」
「周りを見渡してみたら? みんな最高でしょ。どんなタイプがお望みなの? タイ人、マレー人、中国人、インド人? 日本人はいないけど、日本人には飽きてるわよね。」
「君はどう?」
「エスコートはしないの。お客さんに楽しんでもらうために、コーディネートするのがわたしの仕事なのよ。」
「残念だな。」
「ベトナム難民でいい娘がいるわよ。」
「20才を過ぎた中国人がいいな。」
「難民の娘も中国系よ。色はちょっと黒いけど。色の黒い子は嫌いなの?」
「そういうわけじゃない。タイ人やマレー人とは何度もメイク・ラブしたけど、中国人は初めてなんだ。」
女はうなずいて、だれかの名前を呼んだ。
「いくらなんだい?」
「朝まで? それともショート? 朝までがいいわ。あなたは若いし、何度でもできるわよ。」
「いくらなんだい?」
「店には300バーツ。女の子にはチップをあげて。オーバーナイトで2,000バーツよ。」 

信也は300バーツ取り出して、女に渡した。今回のタイ旅行はやたらに出費がかさんでいる。








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