第1章 タイ
9
6日目の朝、いつものようにピシットは、サンドバギーで朝食を運んだ。しかし、その日に限って、日本人は、ドアのところで朝食を受け取ったのだ。ピシットは、客の肩越しに、ほんの一瞬、ベッドの中の女を見た。
「どうして警察にその話をしなかったの。」
ソーイがきいた。ベッドに腰を降ろし、シンハービールを飲んでいる。
「警察はなんども来たはずでしょう。」
「サウジアラビアに行ってたんだ。リャドの建設現場で働いていた。クリスマスに帰って来たばかりなんだよ。あの日本人が失踪したなんて、知らなかった。」
「お姉さんにも言わなかったの?」
ピシットは首を横に振った。
「客のプライバシーに興味をもつなって言われてるんだ。迷惑をかけない限り、好きなようにさせておけってね。」
「その女性、どんな人でした?」
内心の苦しさをかくして、奈津子がきいた。
「そこまで言わなきゃいけないのかい。」
ピシットは躊躇した。彼のほうにも事情があるらしい。
「お願い、教えて。手掛かりはそれだけなのよ。」
ソーイが促した。
「とても重大な情報じゃない。」
「できれば言いたくないんだ。客のプライバシーに関することだし。日本人の失踪と関係があるのかどうかもわからない。」
「無関係とは思えないわ。あなたの言うこともわかるけど、この人たちはわざわざ日本からやってきたのよ。失踪した人の家族や友人がどれだけ苦しんでいるのか、考えてごらんなさい。」
ピシットはしばらく迷っていたが、奈津子を見ているうちに心が決まったようだ。
「情報源はふせてほしいな。信用にかかわることだし。」
「約束するわ。」
「日本人といっしょにいた女は、」
ピシットは奈津子の顔を見て、
「君よりもずっと年上だったよ。それに君のほうがずっと美人だし。」
「タイ人なんですか。」
「ああ、でも中国系だね。」
彼の言い方に、ソーイはなにかを感じた。
「あなたの知ってる人?」
「ああ。」
「だれ?」
「昔の雇用主でね。3年ぐらい前、ハジャイのホテルで働いていたんだ。そのときのオーナーの奥さんだよ。」
10
信也はベッドの上で寝返りをうった。忙しい一日だった。身体は疲労していても、考えることが多すぎて、寝つくことができないのだ。
スワンニー・ムアンカム。タイ人の間では有名らしい。福建人の夫は、タイ南部でいちばんの金持ちで、夫婦とも、精力的にビジネスを展開している。耕介がワンケーオに滞在していた頃、彼女は、対岸のリゾートアイランド、サメット島に視察に来ていた。
ふたりの結びつきは考えられる。彼の研究対象はタイのイスラム教徒で、タイ南部には頻繁に足を運んでいる。その中で、スワンニー・ムアンカムと知り合う機会もあったのだろう。彼女との情事が失踪に結びついてるはずだと、信也は確信した。行きずりの犯行に巻き込まれたとは思えない。
空調が心地よくきいている。しかし、寝つかれない信也は、もう一度大きく寝返りをうった。
〈空港で奈津子に会っていなかったら、〉と、彼は寝入る努力を放棄して、空想し始めた。
〈今頃はソーイとベッドにいたはずなのに。〉
やせて小柄なソーイの、そこだけは量感豊かな腰のあたりを想像して、信也は狂おしくため息をついた。
〈それにもし、ソーイがラヨーンについてこなかったとしたら、今夜は奈津子を抱いていたんだろうな。セックスに関しては保守的な奈津子も、耕介のかくれた一面を知った以上、穏やかな気持ちではいないはずだ。むこうのほうから進んでベッドの中に転がり込んできたんだろうに。
ソーイと奈津子。どちらも超一流の女の子だ。超一流の女の子ふたりがパンティを脱ぎたくてうずうずしているのに、手も出せないんだからな。〉
冷蔵庫から冷えたシンハービールを取り出して、ベッドの中で飲み始めた。ビールの力を借りて眠りにつこうとしたのだ。
だれかがドアをノックした。信也はベッドを出て、ドアに向かった。チェーンはかけたままドアを開けると、ソーイが立っている。
「奈津子が眠るのを待っていたのよ。」
ソーイは部屋に入ると、そのまま信也のベッドに腰かけた。
「ビールでも飲むかい?」
「いいえ。」
ソーイが首を振った。
「ねえ、信也、わたし、もうこれ以上、待てないの。何ヶ月もずっと待っていたのよ。」
信也はソーイの隣に腰をおろし、肩を抱いて、唇づけた。蜜のようにあまく、熱帯の太陽のように熱い唇だ。なんどもなんども唇づけを繰り返したふたりは、ベッドに横たわって身体を密着させた。 処女であるはずのソーイの鼓動は、異様なくらい高鳴っている。
信也は、Tシャツの中に手を入れて、乳房のさきに触れてみた。予想以上に豊かな乳房だ。焦る気持ちを抑えて、しばらく指先で弄んだ。
突然、ベランダに面したフランス窓のガラスが、大きな音をたて始めた。信也はソーイから身を離すと、窓に近づいた。
カーテンを開けると、奈津子がベランダで泣いていた。
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