第1章 タイ

 

 混迷と渋滞と排気ガスのバンコク市内をぬけると、ソーイの運転する三菱ランサーは、ようやく走り始めた。車は、タイ湾に面したチョンブリの街のあたりから、海の香りが漂う空気の中に入って行った。田舎の風景の向こう側に、紺碧の海が見え隠れする。しかしソーイは、牧歌的な風景には目もくれず、車のスピードを上げて行く。優雅でおだやかなタイ文化と、タイ人の運転マナーとの間には、何光年もの隔たりがあるようだ。スピードメーターはすでに100キロを超えている。

 ソーイは、スーパーカブを警笛で追い散らした。運転しているのは、10才くらいの女の子だ。小学生のバイク乗りも、耕運機にまたがる初老の農夫も、山羊も水牛も、平気な顔でけ散らしていく。

 車はパタヤの手前20キロの地点で左折すると、内陸部をつっきる形で、ラヨーンに向かった。ここまでくれば、目的地はもう目の前だ。ラヨーン市内で軽い食事をとると、三人は海岸沿いをさらに東へくだる。

「ねえ、奈津子、あなたのボーイフレンドはワンケーオでなにをしていたの?」
ソーイが後部座席の奈津子にきいた。
「休暇をとっていたのよ。」
「一週間って、言ってたわよね。」
「ええ。」
「ワンケーオは、外国人ツーリストが、一人で一週間も滞在するところじゃないのよ。ビーチ以外にはなにもないところだし、費用もかかかるはずよ。中産階級のタイ人一家が、週末に二泊三日で訪れるところだわ。」
「ワンケーオを起点としてフィールドワークをしていたのじゃないかしら。」
「文化人類学的見地からすれば、あのあたりに興味深い素材なんてないはずよ。あなたの友だちの関心がタイのモスリムにあるとすると、学術的に重要な場所とは思えないわ。」
「そうですか。」
奈津子はふに落ちない様子で、ソーイに同調した。
「確かにポイントをついているな。」
信也はソーイの隣でタイの地図をひろげた。
「カンボジアまで200キロか。このあたりはイスラム文化圏じゃないし、モスリムは、ほとんどいないだろうね。こんなところで一週間も、なにをしてたのかな。」
「もうすぐ、わかるわ。」

ソーイはランサーのステアリングを右にきると、ワンケーオ・リゾートビーチのゲート前で停止した。

「ここがワンケーオよ。」
車を降りると、三人は、ゲート脇のレセプションで宿泊手続きをした。三連のタウンハウス風のコテ−ジの、端のふたつに彼らはチェック・インした。



 川本耕介は、前年の7月3日、このバンガローにやってきて、一週間後にチェックアウトした。20帖ほどのワンルームにベッドがふたつ置いてある。小さいが清潔なバンガローだ。

 信也はベランダに出た。タイ湾のおだやかな波が、ベランダの支柱に打ち寄せては引いている。太陽は西の水平線に沈みかけ、沖合に浮かぶ島々のシルエットが、朱色に染まった海原の上でたゆたい、揺れている。

「シャワーを浴びたいでしょうけど、」
ソーイは、受付でもらった地図と、彼女の腕時計を交互に眺めて、
「レストランは、6時までですって。レストランが閉まると、食事ができないし、奈津子のボーイフレンドのこともきけなくなってしまうわ。」
「どこにあるんだい?」
信也がきいた。
「丘の向こうの入江のあたりかしら。車で行く?」
「歩いてみよう。雰囲気がわかるだろう。」

 バンガローを出ると、三人は、地図を頼りにレストランへ向かった。売店兼用のレストランは、日本の観光地の団体食堂といった感じだが、入江に張り出たオープン・テラスは、南国のリゾート地のエッセンスを充分に伝えてはいるのだ。

  テーブルに着くと、若い妊婦が注文をとりにきた。三人は、ラヨーンで遅い昼食をとっていた。食欲もないのだが、夜の長さを考えて、胃の中に食物を詰め込むことにした。

「ねえ、奈津子、ボーイフレンドの写真はもってきた?」
ソーイはアペリティフ代わりに注文したコカコーラを飲みながら、ココナツ・ジュースを飲んでいる奈津子にきいた。
「ええ。」
奈津子は答えて、パスポート・ケースの中から耕介の写真を取り出した。バンコクの王宮を背景にしたスナップ写真だ。精悍といってはオーバーだろう。しかし、よく日焼けした表情からは、文化人類学を学ぶ者の、地味なフィールドワークの積み重ねに耐え得る粘り強さと、地方育ちのおおらかな性格がうかがえる。

「ボーイフレンドじゃないのよ。」
奈津子はソーイに釘をさした。しかし、ソーイは奈津子の不満に頓着する様子もない。

「さっきの女性を呼んでみるわ。」

ソーイは、注文をとりにきた女を呼んだ。中国人との混血が進んだタイ人の中では、珍しいくらい南国的な顔立ちだ。
「英語をしゃべれる?」
ソーイがきくと、女は退屈そうに「イエス。」と答えた。
「この人たちは日本人で、タイ語がわからないの。だから、英語で話すわね。」
「どうぞ。」
「この人に見覚えは?」
ソーイは耕介の写真を女に見せた。

「去年の7月、ここに滞在してました。警察が何度もきたわ。まだ、見つからないの?」
「まだなの。この人たちは、わざわざ日本からきたのよ。協力してあげてほしいわ。」
「この人は一週間、ひとりで滞在していたわ。私が知っているのはそれだけね。」
「ずっとひとりだった? たずねてきた人は?」
「私が知っている限り誰もこなかったわ。警察がスタッフ全員に確認したの。それでも、なにもわからなかったわ。」
「日常の生活はどうだった? 食事はいつもここでとっていた?」
「ディナーはほとんどここよ。そのとき、朝食を予約していくの。朝はいつもバンガローでとっていたわ。私の弟が配達を受け持っているから、後できいてみればいいわ。」
「朝食の予約はいつもひとり分だけ?」
「ええ。」
「個人的な話はしませんでした?」
おずおずと、奈津子がきいた。
「少しだけ。雨季だったので、天気の話をしたわ。」

 雨季という言葉をきいて、信也は、疑問を口にした。
「雨季にひとりでやってきて、一週間も滞在するツーリストなんて珍しいんじゃない?」
「多くはないですね。特に日本人は。」
「なにをしにここへきたのか、きいてみなかった?」
「答えは決まっているわ。人生を楽しむためでしょう。」
「なるほど」と、信也はつぶやいた。タイ人らしい言い方だ。

 キッチンで料理していた中年女が彼女を呼んだ。母娘なのだろう。妊娠中の若い女は、「失礼」といって、キッチンに向かった。

 「彼女の話、どう思う?」
信也はソーイにきいた。
「なにも見てないのでしょう。賢そうな人だけど、他人のことに首を突っ込むようなタイプじゃないんだわ。」

 入江に沈む夕日に包まれて、三人は黙々と食事をとった。砂浜に打ち上げられた漁船の傍らで、漁師たちが網の手入れに余念がない。地中海クラブのようなリゾート地で休暇を過ごしているはずの奈津子にとっても、素朴で牧歌的なワンケーオの夕照には感じるものがあるらしい。

 食事を終え、夜のスナックとシンハービールを買いこむと、信也たちは、店の前に止めてあったサンドバギーに乗り込んだ。 若い男が運転席に座っている。

「弟のピシットよ。」
さきほどの女が紹介した。
「事情は話しておいたわ。英語はできるので、失踪したお友だちのことをきいてみるといいわ。」
「コップンクラッ。」

ありがとう、という意味のタイ語を残して、信也は、サンドバギーに乗り込むと、運転席の男に向かって、「サワディークラッ。」と挨拶した。

「お姉さんから聞いたと思うけど、僕たちは、去年の夏に、タイで失踪した日本人を探している。なにか知っていたら、教えてほしいな。」
「役に立つかどうかわからないけど、」
若いタイ人は、ギアを入れながら、小さな声でつぶやいた。
「いちどだけ、部屋の中に女がいたよ。」






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