第3章 タイ

 
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「そういうことだ。」

信也が読み終えると、ソンポルがつぶやいた。

「君が寝ている間、李華明との間で折衝が行われた。バンコクの中央政界を巻き込んだ、かなりハイレベルでの取引だった。俺個人として言えば、このさい、徹底的に、李華明とスワンニーの悪事を暴き出したかった。君が当事者となり、裁判で証言すれば、李華明を潰すことも可能だろう。だが、相手も必死だった。あらゆるコネを使って、俺たちの動きを封じ込めようとした。

「李華明は、老いぼれだ。スワンニーなしでは何もできまいとたかを括っていたが、やはり、いざとなれば、底力を出してきた。俺なんかでは見えないところで、ぎりぎりの折衝が行われ、結局、こんな形で妥協が成立した。不本意だが、しかたあるまい。」

「そうですか。」
信也は、無感動につぶやいた。

「そこで、君にお願いだ。」
「なんですか。」
「タバコを吸ってもいいかね?」
「いいですよ。もちろん。」
信也は苦笑した。ソンポルは、タバコに火を点け、深々と煙を吸い込んだ。

「沈黙を守ってくれるかね?」
さりげない口ぶりで、ソンポルはたずねた。

「君はジャーナリストだ。今度のことで、書きたいことはいっぱいあるだろう。この事件で君が果たした役割を考えれば、君には書く資格があると思う。だが、一方で、休戦協定の合意が、関係者全員の沈黙ということを前提として成り立ったのだ。俺たちは、君にも沈黙を守ってもらわなければならない。」

信也は、黙ってうなずいた。美鈴の死を売り物にするつもりはない。

「だけど、ジェニファーは?」
「彼女はだいじょうぶ。」
「どうやって説得したんです? 経緯を考えれば、そんなに簡単に妥協するとは思えないな。」
「個人的な復讐心を満足させたのさ。銃撃戦が始まると、あの女は、すぐにスワンニーを狙い撃ちした。スワンニーの腹に、一人で何発もぶち込んだんだ。」

信也は、はっとし、まじまじとソンポルを見た。

「しかたなかった。とっさのことで、とめようがなかった。」

 違うだろうと、信也は思った。ソンポルは黙認したのだ。あるいは、最初から話ができていたのかもしれない。いっとき、美鈴を逮捕したとしても、彼女は軍や警察を押さえている。ソンポルやジェニファーが、戦いを引き分けに持ち込むためには、あの場で美鈴を殺すしかなかったのだ。

 信也は、自分の中で、理不尽な感情が動くのを意識した。ソンポルもジェニファーも、必死になって自分を救出してくれた。彼らが射殺したのは、まさに自分を殺そうとした女なのだ。

 だが、それでも、二人に対するわだかまりは、すぐに消えることはないだろう。ソンポルもジェニファーもくそくらえと、信也は思った。傷口が再び疼きだし、疲労が襲ってくる。毛布をかぶり、このままずっと眠ってしまいたいと、彼は願った。

  





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