第3章 タイ

 
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 前年の一〇月、香港島南部、レパルス・ベイの海岸に白人女性の死体が流れついた。夏は海水浴客で賑わうこのビーチは、昔の映画「慕情」の舞台としても有名で、香港の、たいていのパック・ツアーのコースに組み込まれている。

 一〇月のある日の午後、海岸線の南端にある天后像の前で、ドイツ人の一行が、中国人ガイドの説明に耳を傾けていた。厳格で規律正しい国民性を持つこのヨーロッパ人たちの中から、ひとりの婦人が群れを離れ、水際に向かって歩いて行った。彼女には、癖のあるガイドの英語が理解できなかったのだ。

 それに、熱心なルーテル派のプロテスタントである彼女にとって、あのような胡散なものに信仰心を傾ける中国人というものが理解できない。ガイドへの思いやりから、しばらくは興味のあるふりをして説明を聞いていたのだが、やがて退屈を抑え切れなくなり、ひと気の少ないビーチを歩きはじめたのだ。

 だが、彼女が目にしたものは、中国の海の守り神よりさらに胡散なものであった。それは、白い肌と茶色い髪をもち、水膨れした身体と、両目を閉じた血の気のない顔を持つ女の死体だった。

 午後の穏やかな海岸に、ドイツ人の悲鳴が響き渡った。


「死体から銃弾が検出された。頭に一発打ち込まれたのだ。」
ソンポルが、続けて話し出した。

「身元を隠すため、死体は全裸にされていた。腕は注射針の跡だらけで、麻薬の常習者であることは明白だった。
「だが、女の指紋は、香港警察のファイルの中には見つからない。そこでインターポールを通じて、世界各国に照会された。

「成果はすぐにあった。ロサンジェルスからだ。もう何年も前のことだが、女には、マリファナ不法所持の容疑で逮捕歴があった。
「バーバラ・ライトというのが女の名前だ。オーストラリア人で、アメリカを旅行中に逮捕された。ロサンジェルス警察が、どこかの大学内の麻薬密売組織を摘発したとき、たまたま、網にひっかかった。

「初犯ということもあり、起訴は免れた。アメリカでは、マリファナ程度では罪にならんのだ。とはいえ、指紋だけはきちんと残された。
「シドニー警察がこのニュースを聞くと、大騒ぎになった。なぜなら、バーバラ・ライトというのは、五年前、タイで消息を絶ったバック・パッカーだったからだ。」

 少しずつ、ソンポルの話の意味がわかりかけてきた。信也は、黙って話に耳を傾けた。

「ハジャイで消息を絶ち、五年後に香港で死体となって発見されるまで、バーバラ・ライトの身に何が起きたのか。
「シドニー警察は、ハジャイに本拠を置く人身売買ルートに着目した。ハジャイの大物華僑が関係しているこのシンジケートは、あらゆる国籍の女を、あらゆる国々に輸出している。シドニー警察はそう言った。だが、彼らも、組織の実態についてはなにひとつ知ってるわけではなかった。

「やがて、当然のように李華明の名前が浮かび上がってきた。李が財を成すにあたって、売春のビジネスがその引き金となった。それは、ハジャイの誰もが知ってることだ。だが、ハジャイに、言われるような人身売買ルートがあるのか。また、李とスワンニーが、シンジケートの大物なのかという点については、疑問もないわけじゃない。

「ともかく、シドニーは、バーバラ・ライト事件に執拗に食い下がってきた。その先兵となったのが、ジェニファーだった。
「ジェニファーはバーバラ・ライトとは同郷だった。ゴールドコーストでは、奇しくも、同じ高校の同窓生だった。高校卒業後、シドニーに出てきた点も共通してた。面識こそなかったが、バーバラ・ライト事件にかかわるうちに、彼女は、バーバラの運命に無関心ではいられなくなった。」

「なぜ、僕に近づいてきたのですか?」
身体をソンポルの方に傾けて、信也がきいた。

「君が香港に向かったときいて、俺は、香港のジェニファーに連絡をとった。君がハジャイでやろうとしたことを説明し、君を守るようにと依頼したのだ。」
「僕のボディーガードだったのか。」
信也は、思わず苦笑した。
「女の子に守られて、安全だったんだ。」

「卑下してはいかんよ。香港でもハジャイでも、君は立派にやってのけた。君が来たとき、ジェニファーもシドニー警察も、完全に行き詰まっていた。君とコンビを組んでから、初めて彼女は、スワンニーの過去を知ったのだ。
「その後、彼女は、香港から東京に飛んだ。日本で働くタイ人ホステスたちと、ハジャイ・コネクションとの接点を探るためだ。しかし、結局、東京では何もしないうちに、彼女は、タイに引き返した。ソーイから連絡を受けて、俺が、彼女を呼び戻したのだ。」

「スワンニーが死んで、真相究明はどうなるのですか?」
信也がきいた。ソンポルは黙って、バッグの中から、英字新聞を取り出した。

「先ず、これを読んでくれ。」

信也は新聞を受け取ると、一面に目をやった。警察病院に運びこまれるスワンニーの遺体の写真が、大きく引き伸ばされて、第一面を飾っている。

「大富豪夫人、誘拐され、殺される」と、煽情的な見出しが躍っていた。

「金曜の夜、ハジャイに本拠を置くタイ南部のホテル・チェーンのオーナー、李華明氏夫人、スワンニー・ムアンカムさんは、夕食後、自宅でくつろいでいたところを何者かに襲われ、拉致された。使用人の急報で警察が駆けつけ、目撃者の情報をもとにパタニ県境の山岳地帯を捜索したところ、ブシ・ティンギ村近くの森林で、スワンニー夫人を発見した。

 夫人は、森の中の堀っ立て小屋に監禁されており、二人のイスラム教徒が小屋の周囲で警戒にあたっていた。警察が小屋を急襲すると、犯人たちとの間で銃撃戦となった。この結果、警官二人が死亡し、犯人グループも全員死亡した。なお、スワンニー夫人は、銃撃戦のさなか、逃走を試みたが失敗し、犯人グループに射殺された。

 その後の捜査の結果、犯人のイスラム教徒は、ペラク村在住のアジズとモハマッドであることが判明した。二人は、タイ南部四県の分離独立を目指すテロ組織『北パタニ・イスラム解放戦線』の主要メンバーであり、かねてからパタニ市内やハジャイ市内のタイ人を対象に、テロ活動を続けてきた。

 スワンニー夫人は、旅行代理店や不動産業の経営を行いながら、数々の慈善事業を展開してきた。その中のひとつに、ペラク村地域開発の事業がある。夫人は、『南部タイの社会活動を推進する女性たちの組織』を自ら結成し、ペラク村への電気と水道の敷設を推進してきた。犯人グループは、この活動に関与する傍ら、夫人の私生活に関する情報を集めていたものと思われる。

 ペラク村の村長、アブドゥル・ビン・ラーマン氏は、事件への村全体の関与を否定した。また、ソンクラー県知事は、緊急記者会見において、生前のスワンニー夫人の功績を称えるとともに、哀悼の意を表明した。

 スワンニー・ムアンカム夫人は中国人であり、本名は林美麗。一九七五年、香港からタイに移住し、一九七九年、李華明氏と結婚した。

 葬儀は火曜日に行われる予定。」

 





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