エピローグ

 
1

 自分の腕の中で、裸で眠る信也を見つめながら、ソーイは、生まれて初めて感じる充足感に浸っていた。破爪の苦しみは、愛する男を手に入れたことの喜びの前に消えて行った。

 ハジャイの大学病院で応急手当をすませた信也は、バンコクに移送され、チュラロンコン大学の付属病院に再入院した。そこで、彼は、ソーイ一家の手厚い庇護を受け、驚異的な回復を示した。肩の傷が完全に癒えるまで、退院後もしばらくは、ソーイの家に居候を続け、好きな本を読み漁った。チュラロンコン大学の図書館は、彼にとっては書物の宝庫だった。

 日本の真夏のような気候のタイの冬が終わり、本格的な夏が訪れる頃、信也はバンコクを離れることになった。タイを発つ前日、二人は、バンコク近郊のチャアム・ビーチに日帰りのドライブに出かけた。ひと気のない、穏やかなビーチで海水浴を楽しんだ後、海に面したリゾート・ホテルの一室で、初めて二人は結ばれた。

 ソーイは、いっとき信也を失うことを恐れていなかった。日本に帰れば、奈津子が彼を出迎えることだろう。そして、今度は、彼女が信也を手に入れるのだ。だが、ソーイにはよくわかっていた。信也が、日本で、奈津子との平和な生活など望んではいないことを。彼の中の、変化と冒険を求める血が、再び、彼を自分のところへ返してくれることを、彼女は直感的にわかっていた。

 ソーイは、愛しそうに、信也の髪に手を触れた。信也はまどろみから目覚め、二人は見つめあった。やがて、どちらからともなく、唇をかさねると、信也は、再び、ソーイの中に入って行った。


2

 川本耕介の遺骨をタイから持ち帰った奈津子は、そのまま、広島へ直行し、耕介の実家を訪れた。あらかじめ、息子の死を聞かされていた彼の両親は、取り乱すことはなかったが、それでも、奈津子にとっては辛い経験だった。

 彼女は、事件の真相を、耕介の家族には話すことにした。ソンポルから口止めを依頼されたとき、家族にだけは話すべきだと主張したのだ。

 自分の内部で事件のかたをつけ、学期末試験を終えた彼女は、耕介の両親を連れて、再びハジャイを訪れた。彼らは事件の現場に花を捧げると、どこにも寄らず、日本に帰って行った。

 奈津子は、バンコクでソーイの家を訪れた。療養中の信也を見舞い、三人で、暁の寺まで出かけて行った。初めてバンコクに着いた次の日の朝、信也と二人で最初に訪れた思い出の場所だ。そこで、彼女は、タイに来た理由を信也に打ち明け、協力を求めたのだった。 

 地上七九メートルの塔の上から、彼女はバンコクの街を見渡した。スモッグで覆われたバンコクは、けっして美しいとは言えないが、それでも、彼女は、いままで訪れた、ヨーロッパのどんな都市よりも、この街が気に入っている。喧噪が街全体を支配しながら、時間は限りなくゆっくりと流れている。

 自分がバンコクを離れれば、いずれソーイは、信也を手に入れるだろうと、彼女は予感した。しかし、不思議と、嫉妬心は感じなかった。信也は、自分と同じように、バンコクという不思議な街に魅せられたのだ。ソーイを通して、彼は、いわば、バンコクに恋をしているのだ。

 河のほうから吹く風が、いっとき暑さを忘れさせた。彼女は、身を乗り出して、チャオプラヤ河を行き来するボートの群れに目をやった。灼熱の太陽に照らされて、大小様々な形の船舶は、エンジン音を響かせながら、波間に揺れている。奈津子は、まぶしそうに目を細めて、船たちの行方を追っていた。


3

 観光客で賑わう廟街に、春の風が吹いてきた。うだるようなバンコクの熱帯夜から比べれば、さすがに涼しいのだが、それでも、一月に来たときからは、ずっと暖かくなっている。夜の九時を過ぎても、人の波は減りそうもない。廟街のナイト・マーケットは、これからが賑わいを見せる時刻なのだ。

 バンコクでソーイと別れた信也は、日本に帰る前に香港に立ち寄った。スワンニーの過去を探るためにここを訪れたのは、もう遠い昔のことのようだ。

 二〇年前、美鈴も、この街をこうして歩いていたのだろう。安物の衣類を冷やかす欧米人の観光客の向こうに、信也は、一瞬、若い時代の美鈴を見たような気がした。「楊貴妃」の映画の中で見た、若くて美しい美鈴だ。無論、それは目の錯覚で、信也は思わず苦笑した。

 変化の激しい香港の街で、この一角は、美鈴の時代から、何も変わっていないのだろう。天后廟の公園では、大衆謡曲の楽団が、広東劇のさわりの部分を演奏している。楽団を取り囲み、熱心に耳を傾けているのは、観光客ではなく、地元の人々だった。若い女の歌手が曲に合わせて見栄を切るたび、人々は拍手をし、小銭や紙幣を空き缶の中に入れている。

  何について歌っているのか、わからなかったが、人々の熱気が興味深くて、彼はしばらく、聴衆の中にとどまった。聴衆の中にいる厚化粧の女たちは、廟街の廓で働く女たちなのだろう。

 廟街のナイト・マーケットの片隅に、彼の足は釘づけになった。若い女性歌手の歌声はせつなく響き、油麻地の高層アパートの谷間に消えて行った。信也は、もう一度、美鈴がここで過ごした時代のことに思いをやり、そして、彌敦道に向かって歩き始めた。(終わり)

  





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