第3章 タイ
66
柔らかな指の動きを頬に感じて、信也は目を開けた。ジェニファーが、そこにいた。左肩のあたりが異様に熱い。ソンポルがタオルで傷口を塞いでいる。
「だいじょうぶ?」
ジェニファーがきいた。
「撃たれたのかな?」
信也は、痛む傷口に目をやった。
「左肩を撃たれた。だが、かすり傷さ。弾丸は体内に残っていない。」
ソンポルが請け負った。
「とはいっても、早く病院に行ったほうがいい。救急車を待つより、警察のジープを使ったほうが早いだろう。しばらく痛みには耐えなきゃいかんだろうが。
「立てそうか?」
返事をする代わりに、信也は自力で立ち上がろうとした。ジェニファーとソンポルが、横から彼を支える。
現場は依然、騒然とした雰囲気に包まれていた。警官隊が、サーチライトで小屋の周りや森のあちこちを照らし出している。信也は、スワンニーが気になった。見回すと、すぐ近くに倒れている。警官隊が発砲した瞬間に被弾し、その場に倒れ込んだのだろう。ジェニファーとソンポルを振り切って、信也は、彼女のもとにかけ寄った。
周りは血の海だ。
「美鈴!」
信也が呼びかけても、彼女は答えない。口元に顔を寄せると、かすかに息遣いがする。
「美鈴!」
信也は、もう一度呼びかけた。
「寒いわ。」
うっすらと目を開くと、スワンニーは弱々しくつぶやいた。
「家に連れてって。」
「連れてくよ。」
答えながら、信也は、どこの家だろうかと訝った。ハジャイの家なのか、それとも生まれ故郷の家なのだろうか。傍らでは、兄の林周明が息絶えている。
信也は美鈴の手を握り締めた。彼女が信也のほうを見た。だが、本当に見えているのだろうか? なにかを言おうとしながら言葉にならず、そのまま息絶えた。
67
ハジャイの大学病院で手術を受けた後、信也は、昏々と眠り続けた。眠っている間も、身体中から発汗し、悪い夢にうなされ続けた。病室では、バンコクから駆けつけたソーイと奈津子が、いっときもかかさず信也に付き添った。
ときおり、ソンポルが心配そうに顔を見せるが、信也の容体に変化はない。肉体的な傷よりも、精神的な疲労が彼の神経を摩耗させているのだ。
うわ言の中で、信也が何度も「美鈴」と呼ぶのを、ソーイと奈津子は耳にした。信也が何に苦しんでいるのかを知って、二人の女は心を痛めた。
長い夜が明け、やがて朝が来た。ソンポルが、サンドイッチのパックをもって部屋に入ってきた。ソーイと奈津子は、缶ジュースで、無理やりソンポルの好意を喉に流し込んだ。窓から、陽の光が一筋差し込んで、青白い信也の顔を照らし出した。信也は眩しそうに顔を歪め、身体の位置をずらした。
「信也。」
ソーイが呼びかけると、彼はうっすらと目を開けた。
「信也。」
もう一度、ソーイが声をかける。
「いま、何時だい?」
「朝の七時よ。」
「スワンニーは?」
「死んだよ。」
ソンポルが横から口を挟んだ。
「あの場で息をひきとった。スワンニーを含めて、三人の死体が見つかった。あとの二人の身元もわかっている。他に関係者は?」
ベッドの中で、信也は首を振った。
「辛いだろうが、君にはいろいろ協力してもらわなければいけない。幸い、傷のほうはたいしたことはないようだ。肩の骨が、多少、砕かれているが、まあ、どうということはないだろう。しばらく、話せるかね?」
「ええ。」
信也はうなずいた。
「よろしい。」
ソンポルは、ベッドの脇に椅子を運んで、腰掛けると、ソーイと奈津子に目で合図した。二人の女は、黙って、部屋から出て行った。
「駆けつけるのが遅れて、すまなかった。」
ソンポルは、二人が出て行くと、あらためて信也に話しかけた。
「君からのメッセージは、すべてカセムサンに握りつぶされていた。俺が事実を知ったのは、ソーイのルートを通してだった。」
「ソーイとは、連絡がとれたのですか? 僕はどうしてもあなたを捕まえられなかった。」
「それは、ソーイも同じだ。彼女は不安を感じて、内務省のある高官に相談した。幸い、彼女の父親が、内務省内に多少のコネをもっていた。
「俺は俺で、内務省出身の国会議員と頻繁に連絡をとっていた。警察畑を歩んできた0Bで、かつての俺の上司さ。ハジャイの隠れ家も、その議員には教えていた。ソーイの父親は、俺の人脈をうまく探り当てたわけさ。」
「隠れ家?」
「俺の動きは、スワンニーからすっかりマークされていた。俺は身の危険を感じ、家族をバンコクに避難させた。俺自身、ハジャイでは、隠れ家を転々とする毎日だった。」
「僕と接触したことでですか?」
「それもある。だが、本命はむしろ、ジェニファーさ。」
「ジェニファーはいったいなにものなんですか?」
信也は、香港で彼女に会って以来の疑問をぶつけてみた。啓徳空港での出現のしかたが余りにも唐突であったこと、旺角で狙撃されたときの対処のしかたがとても素人とは思えなかったことなどから、彼女の身元に関しては、常に疑いを抱いていたのだ。
「インターポール?」
信也はきいた。
「シドニー警察だ。」
「シドニー警察ですか。シドニー警察が、どうして僕に接触してきたのですか?」
「五年前、タイを旅行中のオーストラリア人が失踪した。」
ソンポルは、淡々と語り始めた。
「バックパッカーの女子大生だ。マレーシアのバターワースから、列車でタイに入国した後、消息を絶った。入管の記録では、タイを出国した形跡はない。
「幸い、ペナンの鉄道予約センターで、予約の記録が見つかった。ペナン対岸のバターワースからハジャイまで二等の切符を買ったことになっている。ハジャイ駅では、切符も回収されている。そこで、ハジャイが徹底的に調べられた。
「だが、失踪したオーストラリア人の消息はつかめなかった。シドニー側とは、いろいろなやり取りがあったが、結局、捜査は中断し、やがて、時の流れの中で、忘れ去られて行った。
「ところが、昨年になって、突然、この事件が再燃した。タイで失踪したはずのオーストラリア人が、香港で死体となって発見されたのだ。」
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