第3章 タイ
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信也を乗せた車は、夜の闇の中を二時間以上も走り続けた。すでに幹線道路を大きくはずれ、森の中の小道に入っている。丈高い樹木の間から、時折、満天の星がうかがえる。
両手を縛られ、助手席に押し込められた信也の隣で、モハマッドが器用なハンドル捌きで、四輪駆動車を運転していた。鼻歌を歌い、片言の英語で信也に話しかけるが、信也はいっさい答えない。後部座席には、スワンニーが無言で座っている。
信也は、車の中で、死の恐怖と戦い続けた。震えを押さえるのがせいいっぱいで、言葉を発することができないのだ。スワンニーの決意は固い。哀願したところで、処刑の意志を翻すことはないだろう。彼にもそのつもりはない。助命を乞うくらいなら、最初から、彼女の過去を探ったりはしなかった。
しかし、深い森の中を分け入るにしたがい、恐怖感が昂まって行く。闇が、根源的な恐怖を増幅させるのだ。
やがて、車の前に、小屋のようなものが現れた。さして大きくはない、平屋建ての建物で、モハマッドは、その小屋の前で車を停めた。車の通れる道は、小屋の前で終わっている。
三人は車を降りた。スワンニーが先頭に立って入り口へ向かう。信也は、扉の近くで、オフロードのオートバイを目にとめた。スワンニーがドアをノックする。先客があるらしい。誰かが、内側から扉を開ける。電気の明かりが漏れてきた。自家発電装置があるのだろう。スワンニーが小屋に入り、モハマッドが銃で信也の背中を小突く。
学校の教室程度の大きさだろうか。なにかの作業小屋らしい。様々な器具があちこちに散乱している。だが、信也は、先に来て、彼らを迎えた男に目をやった。肌の色は、土着のマレー人のように浅黒いが、偏平な顔の造作は、明らかにモンゴル系だ。マレー人の伝統的な衣装であるサロンを巻き、バティックのシャツを着ている。若くはない。四〇代の半ばにはなっているのだろう。
男はスワンニーに中国語で話しかけた。スワンニーも中国語で答える。ときどき、男がせせら笑う。自分のことを笑っているのだろうかと、信也は訝った。好き好んで死地に飛び込み、死んで行こうとしている無鉄砲な日本人を笑っているに違いない。
「紹介するわ。」
スワンニーが、今度は英語で信也に話しかけた。
「わたしの兄よ。中国名は林周明。イスラム教に改宗して、アジズと名乗っているの。」
「コンバンワ。」
怪しげな日本語で、男は信也に声をかけた。
「気分はどうだい?」
信也は苦笑した。
「いいと思うかい?」
「妹は気性が激しいんでね。思いどおりにならないと、感情をコントロールできなくなるんだ。失礼なことがなかったかな?」
「淑女のごとく振る舞ってくれたよ。でも、夜も遅いし、できればホテルへ帰してくれるとありがたいんだけど。」
「妹に頼むかい? 眠いのは俺も同じさ。夜遅く呼び出し、汚れ仕事を手伝わすなんて、身内とはいえ、ひどい話さ。」
「身内にしか頼めないのよ。」
スワンニーが口を挟んだ。
「他人に頼むと、必ず後でゴタゴタするのよ。そのための身内じゃない?」
「この調子さ。」
アジズは苦笑まじりにため息をついた。
「それじゃあ、早いとこ片をつけてしまおう。銃で撃つのは簡単だが、死体を埋める作業は、それほど簡単じゃないからな。」
アジズに促されて、モハマッドが銃を構えた。
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