第3章 タイ

 
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「わたしに刺されてから、しばらくして、張高文は姿を消したの。警察の汚職摘発キャンペーンにひっかかったのよ。解職されて、後は、坂道を転げ落ちるように、落ちぶれていった。
「悪党としても、だめな男だった。弱い者いじめをして、小銭をせびりとるのが、あの男の限界なのよ。刑務所を出たり入ったりしながら、結局は香港で食い詰めて、何年か前、非合法な方法でハジャイにやってきた。

「あの男が来たことを、しばらく気がつかなかったわ。わたしがやってるマッサージ・パーラーの用心棒をしていたのに。まあ、チンピラひとりひとりの顔まで、わたしが知ってるわけではないのよ。
「向こうはもちろん、気づいていたわ。ハジャイで力を振るうスワンニー・ムアンカムが、香港の売春宿にいたキャサリンだということを。
「でも、わたしに近づいて来なかった。後ろめたい気持ちがあったのかもしれないし、復讐を恐れていたのかもしれない。わたしが気づいたのは、一年も経ってからだったわ。

「わたしは張を呼んで、事情をたずねたの。ハジャイに来るまでの事情を。でも、それ以上に関心があったのは、どこまで知ってるのかということだった。殺すべきなのか、生かしておいても害はないのか。張は美麗のことを知らないはずだった。美麗が来たとき、張は、もう、わたしたちの目の前から消えていたし。

「張の態度にも悪びれた様子はなかったわ。わたしの過去をネタにして、お金をせびろうともしなかった。しばらく様子を見て、だいじょうぶだと判断したのよ。生かしておいても、害はないって。
「でも、あなたに秘密を売ろうとしたとき、まざまざとわかったの。この男は、結局、危険なんだって。」

「確かなのか?」
信也がきいた。

「ハジャイの人間なら誰でも知ってる程度の情報を売ろうとしただけなのかもしれない。」
「わたしの正体をご存じですか? ニセの美麗だということを、あなたはご存じですかって、きけばよかったの? わたしの過去をネタに、お金をもうけようとしただけで、許しがたいことなんだわ。」
「香港の劉克昌も、それだけの理由で殺したのかい?」
「殺すつもりはなかったわ。気軽に殺しを頼めるほど香港のシンジケートと強いつながりがあるわけじゃないのよ。ただ、あなたのマークだけを頼んだの。でも、あなたが部屋を出た後、シンジケートの人間が劉の部屋へ行き、お金のことで押し問答になった。劉がお金を要求したのよ。言い争いのさいちゅうに、はずみで刺してしまったということだわ。」
「アリサを殺したのは?」
「クレージー・スポットのダンサーのこと?」
「ああ。」
「逃げなければ、殺さなかったわ。張高文がどこまであの娘に喋ったのか、わからなかった。可哀想なことをしたけど、やむを得なかったのよ。」

スワンニーの話を聞けば聞くほど、信也の気持ちは重く沈んで行く。自分の保身のためには、眉ひとつ動かさずに、殺しのできる女なのだ。

「奈津子の家庭教師は? ラヨーンで君と寝た日本人さ。」
「死んだわ。」

スワンニーはあっさり言い放った。

「君が殺したのか?」
無表情のまま、彼女は首を振った。

「あの日本人は、イスラム教徒に興味をもっていたの。おかしな話よね。どうして、日本人がイスラム教徒なんかに興味をもつのかしら?
「でも、人を介してわたしに依頼が来たので、どこかの村を紹介してあげたわ。村で暮らしながら調査を続けているとき、見てはいけないものを見てしまったのよ。

「車を運転中に、道を間違えたのでしょう。よりによって、モスリムのテロ組織のアジトに入って行ってしまったんだわ。
「森の中の堀っ立て小屋で爆弾を作っているとき、ジープに乗った男がやって来たので、彼らは狼狽し、その場で射殺してしまったのよ。」
「ワンケーオで君といたのは?」
「深い意味はないわ。わたしもまだ若いし、ときにはボーイフレンドも必要なのよ。夫はもう歳だし、何年も寝室を別にしているの。後腐れのない情事を楽しむにはもってこいの人だった。サメット島の視察に行ったとき、休暇を調整して、わたしに会いに来たのよ。」
「僕も、後腐れのない情事を楽しむ相手だったのかい?」
「ばかね。」
スワンニーは苦笑した。

「わかってるでしょ? あなたは特別の男だったわ。あの大学生とはわけが違う。ビジネスを覚えて、わたしのパートナーになってほしかった。あなたなら、できたはずよ。わたしは、ハジャイあたりでくすぶっているつもりはないし、将来は、アメリカやヨーロッパまでビジネスを拡大させたいの。そのためには、できる男が必要なのよ。あなたは、理想的な男だった。
「でも、もうおしまいね。」

そう言うと、彼女は、化粧台の上の呼び鈴を鳴らした。すぐにドアが開き、若い男が入ってくる。ソンクラーの別邸の前ですれ違い、ペラク村でボート造りをしていたマレー人だ。手には銃を握っている。

「紹介するわ。モハマッドよ。わたしの兄嫁の弟だわ。」

 





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