第1章 タイ
4
「ねえ、ねえ、見てよ。あの子、手を振っている。」
乗合ボートがすれ違い、小さな女の子が手を振ったとき、奈津子は歓声をあげながら手を振り返した。
チャオプラヤ河を走るエクスプレス・ボートは、旅行者にとっても一般市民にとっても、便利で快適な移動手段だ。古くからバンコクは、水の都ベニスに擬せられてきたが、運河と日常生活のかかわりに限っていえば、バンコクこそまさに水の都と呼んでいい。エクスプレス・ボートは、河畔のホテルと観光名所を縦横に結び、地元民しか乗らない小さな水上バスは、チャオプラヤ河を離れて、名もない運河に入って行く。
20分ほどのクルージング中、大小様々な船がふたりのボートとすれ違い、追い越し追い越されて行った。喧噪と混沌と排気ガスのメガロポリスの中で、人々は確実に自然の中で生きている。
タ・ティアンの船着場でいったん下船すると、対岸へ向かう渡し舟に乗り込んだ。バンコクの対岸、トンブリ地区にそびえたつワット・アルン(暁の寺)が、ふたりの航海の最終寄港地だ。
信也と奈津子は、104メートルもある仏塔の、急な階段を登って行った。陶器の破片で覆われた外壁が色鮮やかに輝いている。テラスに出れば、バンコクの街が一望できる。汗が吹き出しているふたりに、地上79メートルのさわやかな風が吹きつけてきた。
「そろそろ、話してくれないかい。」
テラスの床に直接腰を降ろすと、信也が切り出した。
「ここまで引き回したのだから、僕にはきく権利があると思う。」
「わかっています。」
奈津子は心を決めているようだ。
「迷惑かけてごめんなさい。会ったばかりでしょ? 切り出せなかったのよ。かといって、あなたに行かれてしまったら、心細くてどうしようもなかったの。」
「前置きはいいよ。単刀直入に言ってほしいんだ。まず、君はいったい誰なんだい。」
「名前は池谷奈津子。年令は、20と、ええと1才です。大学で英文学を専攻しています。家は麻布で、有栖川公園のすぐ近くで、父は貿易関係の会社を経営しています。」
「ようするに、お金持ちのお嬢さんなんだな。そのお嬢さんが、どうしてひとりで、東南アジアにやってきたんだい。」
「人探しなんです。友だちが行方不明になったから。」
「なるほど。」
「半年ほど前のことよ。川本耕介さんといって、私の大学で博士課程を履修していました。専攻は文化人類学。東南アジアの民俗学、特にタイのイスラム教徒に興味を抱いていました。」
「君のボーイフレンド?」
「高校時代の家庭教師よ。私はひとりっ子なので、兄のように慕っていたの。」
「肉体関係はなかったんだ。」
「そんなふしだらな女じゃありません。」
「清潔なんだな。21才になって、まだ処女なんだ。いまどき、そんな女の子もいるんだな。」
「私のまわりはみんなそうです。まあ、そうじゃない子も少しはいるけど。」
昔の家庭教師を探しに、ひとりで外国へやってきたのだ。感傷的な性格なのは間違いない。
「とにかく、耕介さんは去年の夏休み、タイに着いてから音信不通になってしまったの。」
5
前年の7月、川本耕介は、バンコクからラヨーン近郊のリゾート地、ワンケーオ海岸へ向かった。ラヨーンはバンコクの東南、200キロにある小さな街だ。川本耕介はワンケーオに一週間滞在した後、「これからバンコクへ向かう。」という絵葉書を家族に出して、消息を断った。
川本は何度もタイを訪れている。バンコク滞在中は、チャイナ・タウンの安宿を常宿にしていたようだ。しかし、今回、チャイナ・タウンに足を踏みいれた形跡はない。
誘拐なら、身代金の要求があるだろう。不慮の事故に遭遇したか、犯罪に巻き込まれたとしか思えない。順調に経済成長を続けるタイも、地方に行けば治安面での不安はあるのだ。
「みんな諦めたのよ。事故にあって、命を落としたのだろう、って。口に出して言わなくても、そう思っているのよ。」
ボートの中で買ったポラリス(飲料水)を飲みながら、奈津子はつぶやいた。色白の額は、じっとり汗ばんでいる。地上79メートルの高さにいても、日影を見つけて腰かけていても、35度にもなろうとする暑さは、真冬の国からきた彼女に容赦なく襲いかかる。
「君はどう思っているんだい。」
「わからないわ。信じていたいけど。」
「なにをしにここへきたんだい。行方不明になった男を探しにきたの?」
奈津子はうなずいた。太陽がだんだん高くなる。
「気持ちの整理ができないのよ。実感が沸かないの。」
「それで?」
「耕介さんの足跡をたどってみたいの。わかるでしょ、この気持ち?」
「まあね。それで、どうしてほしいんだい?センチメンタル・ジャーニーにつき合えってわけじゃないだろうね。」
奈津子は、わずかに残った最後のポラリスを、ひといきで飲み込んだ。
「ご迷惑でなかったら。」
6
「迎えに行けなくてごめんなさい。」
サイアム・センターの一階、UCCのコーヒー・ハウスにやってきたソーイは、信也を見つけると、うれしそうに手を差し出した。
「昨夜はどこへ泊まったの? カオザンのゲスト・ハウス?」
「ロイヤル・オーキッド・シェラトンさ。」
「シェラトン? あんな高いホテルに?」
タイのエリート養成大学で国際関係論を専攻する彼女は、席へ着くとすぐにコロンビアを注文した。冷たくて、甘い飲物にめがないこの国の人の中で、熱いコーヒーを好む彼女は、文字どおり新世代に属しているのだろう。 前年の夏タイを訪れた信也は、帰国する直前、サイアム・スクェアの書店で彼女と知り合ったのだ。
「あんな高級ホテルに泊まるなんて、あなたらしくないじゃない。どうしたの?」
長い髪を束ねた彼女は、華奢で小柄な女の子だ。褐色の肌に、Tシャツがよく似合う。エリート学生らしく、とてもきれいな英語を話す。
「長い、長いお話さ。ねえ、ソーイ、そのことで頼みがあるんだ。」
「あら、なにかしら。でも、心配しないで。あなたのためなら、どんなことでも最善をつくすわ。」
遠慮がちな信也に、彼女は、タイ人らしい気配りをみせた。
「紹介したい人がいるんだ。僕も知り合ったばかりで、よく知らないんだけどね。」
信也は、隣のテーブルに座っている奈津子に合図を送った。
☆ ☆
「お話はわかりました。友だちを探しにタイへきたのね。」
ソーイにきかれて、奈津子はうなずいた。ソーイは奈津子と同世代だ。金持ちの娘という境遇も一致する。 しかし、年頃の女の子どうし。友情を築くことは可能だろうかと、信也は案じた。
「ねえ、信也、あなたはどうするの?」
「うん、まあ・・・」
信也は曖昧にうなずいた。 すでに、奈津子を助ける決意をしていたのだ。
「日本にはね、旅の途中ですれ違った程度でも、それは仏様の縁で結ばれているのだから、その関係を大事にしなさいという意味の諺があるんだよ。 まあ、やっぱり、僕としては彼女を助けなければいけないと思うんだ。」
「当然のことだわ。それで私は、どうすればいいの。」
「彼女のボーイフレンドが最後に姿を見せたワンケーオ海岸に行ってみようかと思っている。」
「ボーイフレンドじゃありません。」
奈津子があわてて訂正した。
「家庭教師だった人です。」
「わかったわ。それで、いつ発つの?」
「今日にでも。」
ソーイはセイコーの腕時計に目をやった。
「これからだと、一泊するようになるわね。いいわ、2時間待ってて。家へ帰ってしたくをしてきます。」
「君もきてくれるの?」
「勿論よ。友だちが困っているのに、見て見ぬふりはできないわ。」
ソーイを見送った信也は、頼もしく思いながらも、なにか不吉な予感を覚えるのだった。
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