第3章 タイ

 
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 奇妙な沈黙が、二人の間に流れていた。スワンニーは虚ろな表情で、タバコの煙りが流れる方向に視線を向けている。初めて信也と会ったときから、ずっと、彼女は、この日本人の値踏みを続けてきた。彼は、どこまで自分の安全を脅かすのだろうかと。

 文革の前後に、多感な時代を中国で過ごした彼女は、危険に対して敏感で、自己の保身に常に関心を払っている。安全を脅かす対象に対しては、過剰に反応し、危険が大きくならないうちに芽をつむことが習性になっている。

 もっと早い段階で、信也を処理することもできたのだ。ハジャイで彼女は、充分な権力をもっていて、その権力は、もっぱら自己の保身のために築き上げてきたものだ。過去の秘密を探る外国人ひとりを抹殺することなど、造作もないことなのだ。

 だが、彼女は、信也を好きなように泳がせた。それは、信也に対する関心からで、できればこの日本人を殺したくはなかったのだ。秘書のカトレヤから、不思議な日本人の存在に関する報告を受けてから、常に彼の監視を続けて来た。香港に移ってからも、現地のシンジケートを通じて、一挙手一投足に注意を払い続けて来たのだ。

 呉玉清を見つけだした時点で、予感はあった。だが、ここまで調べあげるとは予想外でもあった。

「ハジャイで君は林美麗と名乗っている。だが、香港で林美麗とはマギーのことだ。」

しばらく呼吸を置いた信也は、再び、淡々と話し出した。

「君は、美麗なのか。あるいは美鈴なのか。勿論、美鈴だ。僕は、旺角の劉克昌の部屋で、楊貴妃を演じた君を見た。あの映画で寿王を演じた郭元培は、楊貴妃を演じた女優を、林美鈴だと言った。三段論法で言えば、つまり君は林美鈴なのだ。さらに言えば、呉玉清の店で働いていたキャサリンであって、マギーこと林美麗ではないのだ。
「それでは、どうして君は、ハジャイで林美麗と名乗っているのだ? そして、本物の林美麗はいったいどこにいるのだ?

「君の秘密とは、まさにこれだった。呉玉清の店で、警官を刺し、有罪を宣告された君は、カナダへの移住が果たせなかった。だが、香港を出たいという君の欲求は、それでも消えることがなかったのだ。君は心底、共産主義を恐れていた。それは、大陸で君が味わった数々の不幸を考えれば充分納得がいくことだ。それになにより、香港で君のキャリアは余りにも汚れ過ぎていた。

「林美鈴として海外移住が困難な君は、かつての同僚、林美麗に目をつけた。玉清の店をやめた後も、君たちはなんらかの接触を保っていた。香港で、彼女は唯一君の親友だったし、彼女は、君を姉のように慕っていた。
「そして、君のカナダ移住の話に前後して、彼女にもタイ移住の話が起こったのだ。詳しい経緯はわからない。だが、カナダ移住が失敗に終わった君は、美麗を抹殺し、美麗になりすましてタイにやってきた。」

「美麗とわたしは、それほど親しくなかったの。」

スワンニーが沈黙を破って、つぶやいた。

「玉清の店にいたころ、あの娘はまだ初々しかったわ。同郷のよしみで、わたしもめんどうを見ていたの。でも、何軒か店を転々とするうちに、あの娘はすれていたった。売春を続けている限り当然の話ね。わたしも、よく、お金をせびられたわ。
「だから、あの娘を殺すことになったとき、躊躇はしなかった。カナダ移住が失敗して、失意に沈んでいるとき、あの娘がやってきて、ハジャイ移住の話を始めたのよ。遠縁の男がハジャイで成功していて、来れば引き取って面倒をみてくれるって。そう言って、あの娘は喜んでいた。

「わたしも喜んでるふりをして、いろいろと聞き出したの。それ以前にも、身の上話は散々聞いていたから、あの娘の境遇については、だいたい頭に入っていたわ。
「いちばん気になったのが、ハジャイの親戚たちのこと。あの娘の口からは、聞いたこともなかったし。美麗と面識があるのかどうかさえわからなかった。

「あの娘は、すべてを話してくれたわ。こちらの意図を疑わずに。小さい頃に名前だけ聞いて、それを、ふと思い出したらしいの。『手紙を出してみたら、すべてがとんとん拍子に行って、ハジャイに行けそうなの。これから、写真を送るところだわ。』
「わたしは運がよかった。美麗がすでに写真を送っていたら、事情は違っていたでしょうに。」

「そのとき、殺したのかい?」
スワンニーは首を振った。
「いいえ。まだ、あの娘から聞きたいことはあったし。それになにより、自分の手では、さすがにできなかったわ。」
「実際にやったのは、孫紹林なんだろ?」
「こんなこと頼めるのは、孫しかいなかったわ。思ったとおり、孫は、なにも言わずに引き受けてくれたのよ。」
「孫は心から君を愛していたし、君になにか負い目を感じていたらしい。文革時代に、彼が大陸で苦しめた人々と、君の姿がオーバーラップしてたんだろう。美麗を殺せば、結果的に君を失うことになるとわかっていても、なおかつ、彼は、君のために汚れ仕事を引き受けたんだ。」
「ハジャイで落ち着いたら、絶対にあなたを呼び寄せるって、約束したのよ。彼は笑っていたわ。でも、実際に、わたしは何度も、ハジャイから手紙を書いたの。
「返事は一度も来なかった。聞こえてくるのは、よくない噂ばかりよ。そのうち、ガンで死んだって、知らせを受け取ったわ。

「ある意味では、孫も、わたしが殺したようなものね。才能のある人だったし、生まれて初めて、わたしを愛してくれた人だったのよ。その人に、わたしは殺人を依頼したんだわ。」

「ハジャイではどうだったんだい? だれも君のこと、疑わなかったのかい?」
「夫の李華明は、ある時期、疑いを抱いたようだわ。ときどき、彼の質問に答えられないことがあったのよ。どこそこのだれそれは元気かい? というような質問に、とっさに反応できなかったの。美麗なら、当然知ってなきゃいけないはずの人物のことなのにね。

「でも、深く追及されることはなかったわ。ハジャイに来てすぐに、わたしは、李にとって、必要不可欠の女になっていたのよ。最初はセックスで彼を有頂天にさせたし、ビジネスを覚えてからは、ビジネスの分野で彼を助けていったの。
「李は、このわたしが必要だったのよ。以前の名前が、美麗であれ美鈴であれね。オフィスでもベッドでも、わたしは彼を幸せにしたけど、それは美麗にはできないことだったのよ。」

「ニワットも君が殺したんだね?」
スワンニーはうなずいた。
「彼の本名は知ってるの?」
「張高文という中国人なんだろ?」
「張はもともとは香港出身なのよ。」
「五年前に、香港からハジャイに流れてきたときいている。君との関係は?」
「呉玉清の店で、わたしが刺した警官よ。」

 





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