第3章 タイ

 
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 スワンニーは、着衣の乱れを直し、髪を整えると、信也から離れ、化粧鏡の前の椅子に腰掛けた。引き出しからタバコを取り出し、火をつける。

「初めて君と寝たとき、君はベッドの中からソーイに電話をかけ、ソーイと僕をずたずたに引き裂いた。」

 ベッドサイドに腰掛けながら、信也は語り始めた。

「僕が香港に行ったのは、君に復讐したかったからだ。君の尻尾を掴み、一矢を報いたかった。」

 スワンニーは、信也を誘惑しようという試みを諦め、冷徹な眼差しで彼を見つめた。

「君に関する情報を売ろうとしたニワットが、ナサタニー・ロードで殺されたとき、いまわのきわに『ガウロン、ヤンランファン』とつぶやいた。ガウロンが香港の九龍のことだと気づくのに、少し時間はかかったけど、わかってしまえば簡単なことさ。僕は香港に飛び、楊蘭芳(ヤン・ランファン)という名前の女について、誰かれかまわずきき続けた。
「最初に反応を示したのが、劉克昌だった。楊蘭芳を探している奇妙な日本人の噂を聞きつけて、劉は僕に接近してきた。覚えているだろうけど、劉は、君が主演した『楊貴妃』の映画の助監督をした男だ。旺角の彼のアパートで、僕は、ハード・コア版の『楊貴妃』のビデオを見たよ。
「皮肉でも、お世辞でもなく、素晴らしかった。ポルノグラフィーの唯一の目的が、見る者の官能を刺激することにあるとすれば、あの映画を見て、僕の官能は完全に刺激された。映画の中の君は、心底美しかったよ。でも勿論、僕は悲しかったし、傷ついた。
「君の過去について、劉はたいして知ってるわけではなかった。君とは、『楊貴妃』一本の付き合いだったし、『楊貴妃』を撮ったしばらく後で君は、タイへ渡ってしまったのだしね。
「それでも、劉は殺されたんだ。僕に、君の過去に関するちょっとした秘密を売り渡したばっかりに。」

 話しながら、信也は、スワンニーに目をやった。しかし彼女は、ただ、耳を傾けている。

「次に現れたのが、郭元培だった。『楊貴妃』で、寿王を演じた男さ。郭は、劉克昌のアパートを出た僕を狙撃しようとした。君の過去を探る僕は、君の敵と映ったのだろう。かつて憧れた女を守るというヒロイックな行為は、突飛と言えば突飛ではあったけど、僕には、彼の心情が理解できた。僕と郭とは、どこかで通じ合い、結果として、彼は僕に、知ってることすべてを話してくれた。
「君は、君の秘密を売り渡した劉については、許しはしなかった。哀れなユダは、香港のシンジケートに抹殺されたけど、郭については、指一本触れようとはしなかったね。それは、郭との思い出のせいなのか、それとも、一度は、奴が身を挺して君を守ろうとしたからなのか?」
「わたしは、誰も殺してはいないわ。」
スワンニーは、無表情のまま、つぶやいた。

「でも、いいわ。続けてよ。」

「彼は、君と孫紹林との日々について話してくれた。一九七四年に、孫が君を連れてきたとき、君が新進のポルノ女優だったこと。それ以前は、ブルー・フィルムや猥褻写真のモデルで稼いでいたこと。孫と君とのコンビで、ひとつの時代を築いたこと。君が、香港脱出を常に念頭に置いていたこと。一九七五年に、君が忽然と香港から姿を消したこと。そして、郭が、君を、林美鈴として覚えていることなどさ。
 ところで、孫が死んだことは知ってたかい?」
「勿論よ。離れていても、昔の仲間の噂は聞こえてくるものだわ。」

スワンニーは灰皿でたばこを揉み消すと、腕を組んで天井を見上げた。

「孫紹林ね。懐かしい名前だわ。二〇年も前のことなのに、つい昨日のことのような気がする。」
「タイへ移住する件を、孫だけが事前に知っていた。知っていて、彼は、ひとやくかったんだ。でも、どうやって?」
「金銭面で援助してくれたのよ。移住するのにも、けっこうお金がかかるのよ。」
「そんなに簡単なことなのかな? もしそうなら、単に、『金銭面で援助した。』と言ったはずじゃないかな。でも、郭はそうは言わなかった。孫は郭に、『移住するのにひとやくかった。』という言い方をしたそうだ。」
「だからどうだというの?」
スワンニーは笑いながら、信也のほうに身体を向けた。

「直接、孫からその言葉を聞いたわけではないでしょう? 二〇年も前の、他人の思い出話じゃない。細かい言い回しについては、記憶違いもあるでしょうに。」
「まあ、いいさ。いずれにしても、郭の話は有益だった。彼を通じて、僕は、香港時代の君のイメージをもつことができた。ただ、ニワットが僕に売ろうとした秘密については、結局わからずじまいだった。奴を殺してまで君が守ろうとした秘密とはいったいなんだったのか。郭の話からはうかがうことはできなかった。」
「秘密なんてそもそもなかったのよ。すべてあなたの想像から出てきたことだわ。」
「でも、郭は、ひとつ、決定的なヒントをくれた。」
信也は続けた。

「大陸から逃げて来た君が、売春をやっていたということだ。短い期間だったが、それが、香港での君のキャリアのスタートだった。
「これが君の秘密だとは思わない。どちらにしても、それは意外なことではなかったからだ。香港時代の君のキャリアを考えれば、いかにもありそうなことだった。
「だが、彼は、呉玉清を覚えていた。覚えていただけでなく、僕のために玉清を見つけ出してくれたのだ。君はすでに知っているとは思うが、いま彼女は引退して、上環のアパートで、娘一家とそこそこ幸せに暮らしている。七〇才になっているが、健康面では問題はないようだった。」
「すごいわね。さすがにジャーナリストだわ。香港でなにをしてきたのかと思ったけど、きちんと私の過去をたどっているじゃない?」
スワンニーは、苦笑しながら、新しいタバコをシガー・ケースの中から取り出した。

「でも、あまりいい趣味ではないわね。私のような経歴の人間には、探られたくない過去というものがあるのよ。香港で私がやってたことは、けっして自慢できることではないし、今になって、過去の傷をほじくり返されるなんて、ただ辛いだけだわ。」
「僕が喜々として君の秘密を暴いていると思うかい?」
「お金が欲しいんでしょ?」
「まさか。そんなふうには思ってもないくせに。」
「以前は、よく、お金を要求されたわ。タイに来てからよ。タイと香港て、意外と近いのよ。みんな、香港時代の私の過去をネタにして、お金をゆすろうとしたの。」
彼女は、目を細めて、天井を見上げた。

「でも、わたしは、一度としてお金を払ったことはないの。一度脅しに屈服したら、その後、ずるずるとお金を払い続けることになるんだわ。」
「僕は、君をゆすっているわけじゃない。」
信也は、少しイライラした。しかし、スワンニーは、かまわずに続けた。
「おかげで、香港時代に、わたしがいかがわしいことをしていたということが、ハジャイ中にひろまってしまったの。でも、結果としてそれがよかったのね。いまは、もう、それは秘密でもなんでもない。だれも、そのことで、わたしからお金をゆすることはできないのよ。」
「それは残念。」
「それでどうだったの? あのおばさん。呉玉清よ。なんて言ってた?」
「君の香港での最初の一年間について話してくれた。大陸から逃げて来た日に、玉清に拾われて、その夜、初めて、イギリス人の船員に身体を開いたこと。彼女の店ではキャサリンでとおっていたこと。君の本名が林美鈴だったこと。客の警官と揉め事を起こし、包丁で刺してしまったこと。一度だけ、君を訪ねて来た若い男がいたこと。マギーという店の女が唯一の親友だったことなどさ。」

スワンニーはなにも言わずに、信也が香港で集めてきた知識を値踏みした。

「どう考えても君の秘密とは言えないことばかりだ。君の過去を探る僕にとって、玉清は最後の駒だったが、見通しは暗かった。僕は、いったんは諦めて、香港を去ることを考えた。
「だが、幸い、運は最後に僕に味方した。呉玉清は、それとは知らずに、君に関するとんでもない秘密を握っていたのだ。
「それは名前のことだった。いまも言ったように、君の店での名前はキャサリンだった。美鈴(メイリーン)という君の名前に韻を踏んで、玉清がつけたものだ。
「その後、売春から足を洗った君は、映画の世界に足を踏み入れ、郭元培と知り合った。郭は君を林美鈴として認識し、楊蘭芳という芸名を持つ君と共演した。
「そして、タイに来た君は、林美麗(リム・メイリー)という中国名を持ち、スワンニー・ムアンカムというタイ風の名前を名乗っている。

「玉清が最後に教えてくれたのは、とんでもないことだった。彼女は、売春時代の君の唯一の友人、マギーのことを話してくれた。地味で目立たない、おとなしいこの女は、玉清の店に半年ほどいた後、突然、他の店に移った。君ほど美人でなかったマギーは、君と親しかったというただ一点で、玉清の記憶に残っていたのだ。
「最初に会ったとき、玉清は、彼女の本名を忘れていた。店に来た当初、メイという名前をつけてあげたこと、その後、イギリス人が、なにかの歌に因んでマギー・メイと呼び始めたことは覚えていたのだけど。
「なにかの歌とは、ビートルズの『マギー・メイ』で、その歌の中のマギー・メイとは、リバプールの薄汚れた娼婦のことだった。
「それ自体は意味のないエピソードだ。だが、それが玉清の記憶に火をつけた。
「つまり、美鈴という名前に韻を踏んで、君をキャサリンと名づけたように、呉玉清は、マギーの本名に韻を踏んでメイと名づけたのだ。そのことを思い出したとき、玉清は、マギーの本名が、林美麗だと思い出したのだ。」

 





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