第3章 タイ

 
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 視察の後、信也は、所在無くハジャイで時を過ごした。スワンニーは、視察の打ち上げと、日常のビジネスで目の回るような忙しさらしい。

 ホテルから何度か、彼は、ハジャイ警察のソンポルに電話を入れた。バンコクから帰っているのは確からしい。だが、何度電話しても所在がつかめない。英語のわかる相手がいないのだ。信也の片言のタイ語では、正確なコミュニケーションは不可能だった。

 ハジャイのような、猛々しい街の中に一人取り残されて、信也は、不安感にさいなまされた。自分の命運が、気まぐれな第三者の手に委ねられていて、後ろから背中をひと押しされれば、奈落の底に落ちて行くのだ。考えれば考えるほど、悪い方向に想像力が働いて行く。

 逃げ出すのは今のうちだと、彼は自分に言い聞かせた。ハジャイにいて、何の展望があるのだろう。スワンニーとの間に未来はない。センチメンタルな感情だけで甘い夢を見るには、彼女の人生は激しすぎる。

 夕方、彼は、スワンニーの私設秘書、マーニーからの電話を受けた。初めてスワンニーの家を訪れたとき、彼を呼びに来た色白の美しい少女で、今日も透きとおるような声で、電話の向こうから話しかけてきた。

「マダム・スワンニーがミスター・ノブヤを夕食にご招待いたします。よろしければ、七時にお迎えに上がります。」

          
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 スワンニーとの二度目の夕食は、ずっとくだけたものだった。スワンニーは、相変わらず、念入りに化粧を施し、スリットの入ったチャイナ・ドレスに身を包んでいたが、それはもっぱら、食事の後の楽しみのためだ。信也もスワンニーも、食事のことなど眼中になかった。

 食事の間、二人は、知事の視察のことを話題にした。視察は、スワンニーの書いたシナリオ通り、順調に進んだのだ。視察はなおざりだったとしても、村人を前にした知事とスワンニーのパフォーマンスは念の入ったものだった。

 スワンニーは、マイクに向かって説明した。村人がいかに主体的に行動をし、彼女の組織が、いかに、側面からその活動を支えてきたかを。熱弁を振るい、汗が額からしたたり落ちる。

 知事は、スワンニーの後を受けて、マイクの前に立った。彼は、広場に集まった村人に、開発がいかに大切なものかを、一時間もかけて、やさしく、かみ砕いて話し続けた。このとき、信也は、タイ語ができないことを心から後悔した。知事の話術は完璧らしく、演説の間中、村人たちは、知事の話に大きくうなづき、笑い声をもらし、ところどころで、お世辞とは言えない拍手を繰り返した。

 視察が成功し、スワンニーは上機嫌だった。食事の間は、甲斐甲斐しく、信也の世話をやく。

 彼女に言わせれば、ビジネスこそ人生の目的で、ビジネスの拡大がそのまま人生の充実を意味している。ビジネスの世界に入るまで、彼女はなにものでもなく、地方的な成功を果たした今でも、やっと、人生の揺籃期を脱した段階なのだ。

 ほんとうは、そんなに単純なものでないということはわかっている。だが、物事は単純化したほうが、わかりやすく失敗がない。難しい理屈は、成功した後で、ゆっくり考えればいい。必死に働いて、果実を得るというのが、東南アジアで成功した中国人の、共通した哲学なのだ。

 倫理の問題がある、と言いかけて、信也は、言葉を飲み込んだ。スワンニーが歩んで来た人生を考えれば、それは余りにも説得力を欠いている。結局彼は、口をつぐみ、彼女の話に耳を傾け続けた。

         
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 食事が終わり、寝室に入ると、スワンニーは、すぐに信也を求めてきた。初めてのときと違い、そこへ至るまでに、長い道のりは必要でない。ベッドに腰掛けると、彼の身体に両腕を回し、誘いこむような目で、信也を見つめる。

「あれ以来よ。ずっと待っていたの。夜になると、身体が疼いて、狂いそうだっわ。」

彼女は、膨張した信也の股間に手を伸ばした。
「ねえ、約束してよ。もう、どこへも行かないって。」
信也は、彼女の唇から顔をそらし、股間に触れていた手を払いのけた。

「香港に行ってたんだ。」
信也は、彼女の耳元でささやいた。しかし、スワンニーは、聞こえないふりをして、身体をさらに密着させた。
「こないだも言ったろ? 香港に行ってたんだよ。気にならないのかい?」
「話はあとよ。」
あえぎ声を出しながら、彼女は、チャイナ・ドレスのボタンをはずし、絹のブラで覆われた豊かな乳房を、信也に押し付けた。

 信也は、暴発しそうな欲望を必死に押さえて、スワンニーを両手で支えこんだ。

「香港での動きは掴んでいるよね。でも、僕がどこまで知ったか、気になるんじゃないのかい?」
「なにを言っているの?」
彼女は、信也のシャツの下に左手を入れ、右手を再び、彼の股間にもっていった。
「私が気になるのは、このことだけよ。こんなに、大きくなっているのに。」
信也は、スワンニーの両肩を強く掴んで、彼の身体から引き離した。

「ねえ、美鈴(メイリーン)、ぼくは、香港ですべてを知ったんだよ。」

 





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