第3章 タイ
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翌朝、目が覚めるとすぐに、信也は、朝食をとりに外に出た。足は自然と、ハジャイ・ロイヤル・ホテルの方へ向かう。ホテルの前では、制服を着た一〇人ほどの女たちが、歩道にたむろしている。路上に駐車したワゴン車に乗り込もうとしているのだ。
カーキ色の制服に紺の襟章をつけた女たちの中に、スワンニーがいた。スワンニーは、女たちの先頭に立って、ワゴン車に大小様々な荷物を詰め込んでいる。
垢抜けない制服に身を包み、初めて会ったときのように化粧っ気もないスワンニーは、どこかユーモラスに映る。仲間たちと冗談を交わしながら、それでもてきぱきと作業を進めている。
スワンニーを見た瞬間、信也は、まるで高校生の初恋のように、胸が高鳴るのを意識した。いちばん会いたかった女が目の前にいる。香港にいる間、かたときも彼女のことを忘れたことはない。彼女にまつわる忌まわしい過去を知ったときでさえ、スワンニーを求める気持ちに変わりはなかった。
だが一方で、アリサの死に対する責任が、気持ちに重くのしかかる。アリサも、ニワットも、香港の劉克昌も、奈津子の家庭教師、川本耕介も、スワンニーが小指一本動かしただけで抹殺されたのだ。
信也を見つけると、スワンニーは嬉しそうに微笑んだ。
「信也、どこに行ってたの? 日本に帰ったのかと思っていたわ。」
「香港に行ってたのさ。」
「香港に? 身軽でいいわねえ。取材に行ってたのでしょ? どこにでも行けて、ジャーナリストって羨ましいわ。」
「昨日、カトレヤに電話したけど、取りついでもらえなかったよ。」
「ごめんなさい。忙しかったのよ。電話は取りつがないよう言ってたの。でも、あなたから電話がくるとわかっていたら、一言、あの娘にも言っておいたのに。また、夕食に招待したかったわ。」
「そんな制服を着込んで、なにをしてるんだい?」
「今日はね、私たちのグループにとって、とても大切な日なのよ。ご存じかしら? このあたりの女性経営者たちで組織している団体があるの。」
「君がチーフになっている慈善団体なんだろ?」
「『南部タイの社会活動を推進する女性たちの組織』っていうのですけど。今日、プロジェクトのひとつに、知事の視察が入るのよ。」
なるほど、それで彼女は忙しかったのだ。
「どんなプロジェクト?」
「イスラム教徒たちの集落の地域改善事業よ。水道や電気を整備したり、現金収入を増やすための雇用機会を作り出したりとか。」
「おもしろそうじゃないか。」
「おもしろいわよ。そうだわ、信也、私たちといっしょに来てみない? タイ南部のモスリム・ビレッジなんて、めったに見れるものじゃないでしょ? ジャーナリストなら、興味をもつのじゃないかしら?」
「まあね。」
「知事の視察は午後からよ。それまで、現地で準備をしてるの。時間があったら、村を案内してあげるわよ。」
スワンニー個人の問題を離れても、おもしろそうな申し出であることは間違いない。冷戦終結以降、少数民族の問題が国際政治のホットなイッシューになっている。中でも、イスラム教徒のマイナリティは、世界のあちこちで国際紛争の火種になっているのだ。
タイでは、状況はそれほど深刻ではないのだが、それでも、ハジャイから南の地方では、ときに応じて、テロや分離独立運動が活発化する。
イスラム・マイナリティの問題は、フリーランスのライターである信也にとっても、興味をひくテーマなのだ。こういう機会がなければ、現地に入っていくことは難しいだろう。ふたつ返事で、スワンニーの申し出を受け入れた。
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