第3章 タイ

 
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 CX七一三便は定刻どおりドンムアン国際空港に到着した。香港では、ジェニファーを見送るつもりが、見送られることになった。彼女の乗るノースウェストよりもCXのほうが、離陸時間が早かったのだ。

ハジャイ行きのTGを待つ間、空港の公衆電話からソーイの家に電話を入れてみた。意外なことに、奈津子が出た。ソーイは大学に行っている。奈津子は、ソーイの家に居候しながら、アユタヤやカンチャナブリまで足を伸ばしている。週末には、ソーイと二人でチェンマイ旅行を計画中だ。ソーイは立ち直った。あなたのことは、話には出ない。

信也は、奈津子をさえぎり、香港で起きたことを簡単に説明した。そして、もう一度、ハジャイに足を踏み入れることを。

いつの間にか、後ろに行列ができている。ビジネスマン風の日本人に目で促されて、彼は電話を切った。

ハジャイには夕方着いた。さすがにハジャイ・ロイヤル・ホテルには泊まる気になれない。南海酒店にチェック・インした信也は、ハジャイ警察のソンポルに電話を入れた。

聞き覚えのある声が受話器をとった。ニワットが殺された夜、麻薬所持容疑で信也を取り調べた若い刑事に違いない。

「ソンポルはいない。バンコクに出張中だよ。」
カセムサンという名の若い刑事は、そっけなく答えた。
「それより、あんた、まだハジャイにいるのかい?」
「この街が気に入ったんだ。」
「悪いことは言わない。早く街を出たほうがいい。」
「長居するつもりはないよ。用がすめばすぐに出て行くさ。それより、ソンポルはいつ帰ってくる?」
「さあね。なにも聞いていないな。」

聞いていたとしても、カセムサンは答えないだろう。カセムサンは直接スワンニーに結びついてる。信也は、諦めて受話器を置いた。ハジャイで唯一頼れる男、ソンポル警視は、ハジャィから千キロも離れたバンコクにいるのだ。 彼は、スワンニーの秘書、カトレヤに電話した。ソンポルがいない以上、自分ひとりで事にあたるしかない。

カトレヤは、信也の電話に興味を示さない。

「あら、また取材の問い合わせなの?」
「まあね。」
「ごめんなさい。いま、忙しいのよ。」
「少しの時間でいい。スワンニーに取り次いでほしいんだ。」
「それは無理よ。ビジネスに関することについては、必ずわたしがマダム・スワンニーに取り次いで、指示を仰ぐことになっているの。まあ、今日、明日中は無理ね。二・三日中にもう一度、電話をくれる?」
「ビジネスのことじゃない。プライバシーに関することなんだよ。」

電話の向こうで、カトレヤは笑い出した。
「おかしな人。プライバシーのことなら、わたしの管轄外よ。直接、家に電話したら?」
「自宅の電話番号は?」
「ごめんなさい。わたしも知らないのよ。じゃあ、またね。」

信也は、肩透かしをくったような気持ちになった。香港から、意気込んでハジャイに戻ってきた。そのわりに、スワンニーは、信也のことなど眼中にないようなのだ。

暗くなるのを待って、街に出た。ニワットの殺害現場、ナサタニー・ロードに行ってみる。ニワットが目の前で殺されたのは、そんなに前のことではない。

街はあいかわらず活気に満ちている。道路脇いっぱいに屋台が拡がり、男たちが一日の労働の疲れを癒している。信也は、あの日腰掛けていた屋台をみつけ、米で作った麺、クイッティオウを注文した。屋台の主人が信也に気づき、なにか話しかけてくる。笑っているところを見ると、悪意はないようだ。

しばらく屋台で時間を潰すと、頃合を見計らって、クレージー・スポットに足を向ける。スワンニーの情報を取るために、中国人娼婦アリサを買った店だ。結局アリサはどうなったのだろう。無事でいるとは思えない。彼女の運命は、自分のせいでねじ曲げられたのだ。

扉を開けてバーの中へ入って行く。カウンターの向こうの舞台では、裸の女たちが、せいいっぱいの空元気で、音楽に合わせて踊っている。

信也がテーブルに着くと、白いミニドレスの女が注文をとりにきた。キャッシーと名乗った女だ。彼女は、すぐに信也に気づいて、ぎこちなく笑う。

「あら、あなた。」
信也は、軽くウィンクをする。
「まだ、ハジャイにいたの?」
「ああ。」
「飲み物は?」
「メコンをオンザロックで。」
女は、ウェイターに信也の注文を告げると、彼の隣に腰かけた。
「なにしにきたの?」
「ずいぶん冷たい言いかたじゃないか。」
「疫病神なのよ。」
「アリサはどうなった?」
キャシーは黙って首を振った。
「行方不明なままなのかい?」
「死んだわ。」
「なんだって?」
「何日か前、警察から連絡があったの。バンコクのチャオプラヤ河に死体が浮いていたそうよ。拳銃で射殺されたらしいわ。」

予期はしていたのだ。しかし、アリサの死が現実のものとなり、信也は確実に打撃を受けた。彼女の死の、一端の責任は彼にある。

「犯人は?」
キャシーはもう一度首を振った。
「バンコクで殺されたって?」
「わからないわ。死体が発見されたのがバンコクなのよ。」
信也は、運ばれてきたメコンに、苦い思いで口をつけた。
「あなたがアリサを買った次の日、あの娘は行方不明になった。それきり姿を現さなかったわ。あなた、あの娘との間になにかあったの?」
「いや。」
「ただの客じゃなかったんでしょ? 詳しい事情はわからないけど、あなたがあの娘を追い詰めたんじゃない?」
「結果としてそうなったのかもしれない。この街のタブーというものが、あのときはわからなかったんだ。」
「いまでは、よくわかっているの?」
「そのつもりさ。少なくとも、自分の問題に、関係のない人々を巻き込むまいとは思っているよ。」
「そうなの?」
キャシーは、冷たく一笑すると、席を立った。
「それじゃあ、おとなしくそこで飲んでなさい。女の子は、つかないわよ。女の子が欲しいなら、他の店に行ってね。」

屈辱感を弄びながら、信也は、しばらく飲み続けた。店の女たちは、遠巻きに彼を眺めるだけで、近づこうとはしない。アリサの失踪と直接彼を結びつけているようだ。

三〇分ほどで店を出た。あてもなく、夜の街を歩き続ける。不思議なのは、街に緊張感がまるでないことだ。何日か前は、街中が彼を凝視しているようだった。

ピリピリとした空気の中を、ナサタニー・ロードに出向いて行き、ニワットとの取引にのぞんだのだ。ニワット殺害事件に遭遇し、現場から逃げ出した信也を、ハジャイ警察は待ち伏せしていた。周到に張り巡らせた蜘蛛の巣に向かって、盲目的に進んで行く虫けらのような気分を味わったのだ。

 いまのハジャイは、無関心を決め込んでいる。歩き疲れた信也は、軽い期待をこめて、ホテルへ帰った。フロントで、メッセージの有無をたずねる。だが、期待していたものはなにもない。ベッドの中で、しばらく電話を待ったが、聞こえるのは、夜遅くまで走り続けるオートバイの騒音だけだ。

今夜はなにも起こらない。ハジャイが牙を剥き出しにするのは明日以降のことだ。そう思うと、肩の力が抜けていき、急速に睡魔に襲われる。やがて、彼は、深い眠りに落ちていった。  







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