第2章 香港

 
54

 二人が酒樓を出ると、郭元培が声をかけてきた。

「話は聞けたのかい?」
「ああ。」
話は聞けた。だが、満足からはほど遠い。歩きながら、信也は、玉清の話を要約した。

「亭主のこと、どう話してた?」
信也が話し終えると、郭がきいた。
「どうって?」
「黒社会でひとかどの人物だったが、抗争のさい、流れ弾にあたって命を落としたという話は聞かされたのかい?」
「ああ。」

訝しげに、信也は答えた。郭はなにを言いたいのだろう。

「杜月笙傘下の伝説的な任侠だったが、若くして死んだため、その名がさらに高まったとな?」
「ああ。そんな話をしてたよ。それがどうかしたのかい?」
「どうもそれは違うらしい。」

郭は、慎重に言葉を選んだ。

「もっとつまらん話さ。あの女の亭主は、あの女が言うほど、立派な任侠ではなかった。古い話で、裏を取るのは難しいんだが、たまたま、うちの組に、あの女の亭主を知ってるという長老格の男がいるのさ。」
信也は、驚いて、郭元培の腕を掴んだ。
「どういうことなんだい?」
「呉玉清が妊娠中に、別の女を作ってマカオに逃げたというのが真相らしい。マカオから、やがてサンフランシスコへ渡り、女といっしょに平凡な家庭を作って、一〇年ほど前に、ガンで死んだ。ヤクザの世界からは、とっくの昔に足を洗い、サンフランシスコでは、小さな中華料理店を持つまでにはなったらしい。」
「信じられないわ。」
ジェニファーが叫んだ。
「作り話とは思えなかった。」
「単純な作り話というわけでもなさそうなんだ。」
「どういう意味?」
「一種のボケ症状らしい。」
「ボケてるのかい? 彼女の話は信用できないのか?」

信也の不安を察して、郭は首を横に振った。
「そういうことじゃない。全体的には、まともなんだが、亭主のこととなると、記憶が、事実とはまったく別の方向を向いてしまうということさ。」

信也は、天を仰いだ。人生は、ときとして、とても不可解なものになる。話を聞いた限り、玉清は至極まともな老人だった。記憶が曖昧になることはあったとしても、話の筋は明瞭だった。二〇年前のことだ。よく覚えていると言うべきだろう。ボケ症状があるとは思えない。

「お上品になってるのが、気になった。俺が覚えているのは、もっとえげつない女さ。金のことしか頭にない、うす汚れた婆あだよ。娘一人抱えて、生きていかなければいけなかったのだから、それが自然な姿だったろう。
「そこで、ちょっと探りを入れてみた。亭主に逃げられたことが、傷となって残ったらしい。その傷を忘れるために、あのての話を考え出して、信じこもうとしたんだな。
「小金を貯めて引退すると、自分がなろうとしてなれなかったもの、つまり、任侠の亭主を若くして失った、きっぷのいい女の役を演じ始めたのだと思うよ。その役を演じ続けているうちに、現実と想像の区別がつかなくなったのだろう。」
「美鈴に関する話はどうなんだ? 信じてもいいのかい?」
「まあ、信じていいだろう。ただ、一点を除いて、あの女はまともだと思うよ。亭主にまつわる思い出話を除けばな。」

 信也とジェニファーは、上環の駅前で郭元培と別れた。郭は、地下鉄で尖沙咀に帰って行った。信也とジェニファーはビクトリア・ピークへ登るため、二階建バスに乗り込んだ。



55

 ジェニファーにとっては、香港最後の一日だった。すでに東京行きのチケットを買っていた。翌朝、ノースウェストで成田に向かって飛び立つのだ。香港では、不思議な体験をした。若い日本人と知り合って、そうでなかったら、けっして見ることのなかった世界をかいま見た。

 香港は不思議な街だ。六〇〇万の難民で成り立ち、アジアのどんな街よりも繁栄している。着の身着のまま逃げて来た人たちが、これだけの街を作り上げ、維持している。

 彼女は、香港を発つ前に、もう一度、街の様々な光景を、目に焼き付けることにした。信也と二人で、ヴィクトリア・ピークに登り、スタンリー・マーケットでは、土産物屋のゲットーをひやかした。西貢の漁村近くで海鮮料理を楽しみ、ニュー・ワールド・センター裏のプロムナードからヴィクトリア・ハーバーの夜景に心をときめかせた。若い二人は、ずっと抱き合ったまま、尖沙咀から香港島を臨む、奇跡のような光景に釘づけになっていた。

 重慶大厦に帰ったとき、十一時を過ぎていた。信也は、フロントで、呉玉清からのメッセージを受け取った。

「マギーの名前に関する経緯を思い出しました。興味があるのなら、電話をしてください。十一時まで起きています。」

 信也は、時計に目をやった。十一時を十分ほど過ぎている。許容範囲だろうと勝手に判断して、フロントの電話から、ダイアルした。運よく玉清が出てくれた。

「ああ、あなたね。」
「遅くなってすみません。寝ていたのですか?」
「ベッドに入ろうと思っていたとこよ。でも大丈夫。起きてましたから。」
「そうですか。安心しました。ところで、マギーの名前の件ですけど。」
「ふと思い出したのよ。マギーという名前が、イギリス人がつけたニックネームだということは話したわよね。」
「ええ。」
「最初はね、メイという名前だったのよ。それでイギリス人がマギー・メイと呼び始めたんだわ。ビートルズのレパートリーの中に、マギー・メイという曲があるとかで。
「当時、ビートルズは香港でも人気があったし、マギー自身もその名前が気に入ってたみたいだった。でも、マギーが店をやめた後、誰かが、歌の中に出てくるマギー・メイとは、薄汚れた娼婦のことだと教えてくれたのね。ひどい話で、あの娘がちょっと不憫に思えたわ。」

 話をきいて、信也は落胆した。始めから期待していたわけではない。しかし、玉清が披露したエピソードが、美鈴の過去に関する謎に光明をあててくれるとも思えない。

「そうですか。」
彼は小さくためいきをついた。
「こんな話がお役にたつのかしら?」
「少し考えてみないと。」
「それから、この話を思い出したとき、あの娘の本名もいっしょに思い出したわ。
「最初のニックネームだったメイという名は、わたしがつけたのよ。あの娘の本名の美麗(メイリー)にちなんだの。」

頭のなかで、なにかが炸裂した。
「なんですって?」
「マギーの本名は、林美麗(リム・メイリー)というの。キャサリンの本名が林美鈴(リム・メイリーン)でしょ?
「年齢や出身地だけでなく、名前まで似ていたのよ、あの二人は。それで、お互い親近感を持ち合っていたのね。」

 受話器を握り締めたまま、彼は電話の傍らで立ちすくんだ。話の全体像がつかめたわけではない。考えるべきことは山ほどあるのだ。しかし、二〇年前のやり手婆あの漏らしたひとことは、物事の核心に迫っている。

 信也は礼を言って電話を切った。吐き気とめまいをこらえながら重慶大厦の薄汚れた階段を登っていると、過去からこみ上げてくる、とてつもなく深い悲しみに襲われた。







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