第2章 香港
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「あのときは、本当にびっくりしたわ。美鈴は、おとなしいだけの娘だと思っていたから。他の娘たちともうまくやっていたし、客の扱いも上手だった。あれだけの気性の激しさを秘めているとは思わなかったわ。
「警察からはさんざん嫌がらせを受けるし、お金は出て行くし。
「でもまあ、キャサリンなら、しかたがなかった。うちのドル箱だったし、それ以上に稼いでくれていたから。私自身、あの娘のことが好きだったのよ。」
「キャサリン? 誰です、それは?」
信也がきいた。
「美鈴(メイリーン)のことよ。うちの店では、キャサリンで通っていたわ。店の娘たちはみんな、ヨーロッパ風の名前を使っていたの。あの娘にしても、キャサリンという名前のほうが、私には懐かしい。最初に会ったとき、確かに美鈴と名乗っていたわ。でも、その晩のうちに、キャサリンという名前をつけてあげて、それ以来ずっと、キャサリンって呼んできたの。だから、私にとって、あの娘はキャサリンなのよ。」
「事件を起こした香港警察の男は、その後どうなったのですか?」
「しばらくは、嫌がらせを受けたわ。ときどき通ってきてはプロテクション・マネーを要求したの。その頃はまだ、香港警察も腐敗していたのよ。でもそのうち、姿を見せなくなったわね。」
「どうしてですか?」
「はっきりしたことは、わからない。別の管内に転勤になったのかもしれないわ。いずれにしても、その男のことは、大きな問題じゃなかったのよ。あの頃の香港では、警官に対する賄賂は日常茶飯事だったし、税金みたいなものだったわ。警察はマフィアとは違うということがわかったのは、つい最近のことよ。」
「その警官の名前は?」
玉清は、しばらく考えていたが、
「だめ、思い出せないわ。」
「美鈴は、その事件をどう受けとめていました?」
「どうって?」
「精神的に大きな傷となって残ったとか?」
「そんなことはなかったわ。刑務所に入ることもなかったし、ときどき男がやってきて、厭味をいいながら、お金をせびる程度のことだから、深刻には受けとめてなかったはずよ。」
信也は、事件の話を初めて知った。しかし、それが、その後の彼女にずっとまとわりついて悩ませ続けてきた問題とも思えない。
結局のところ、よくわからないのだ。過去が、いまの彼女にどういう影を落としているのだろう。売春に、ブルー・フィルムにポルノ写真が、人を殺してまで守らなければいけない秘密とも思えない。名誉な話でないことは確かだが、劉克昌を殺したことで、却って不名誉な過去を浮き彫りにしているのだ。
「美鈴には、誰か特定のボーイフレンドがいたのですか?」
ジェニファーがたずねると、玉清はかぶりを振った。
「いえ。お客たちの中でも、従業員の間でも、あの娘のファンは多かったけど、お店以外で、誰かと会っていたことはなかったはずよ。」
そう言って、彼女は目を閉じると、右手の親指と人差し指で、額のあたりを軽く押さえた。
「ごめんなさいね。いま、なにかひっかかるものを感じたのよ。」
「ひっかかる?」
「もう二〇年も前のことなのに、ふいに思い出したの。その記憶を呼び戻そうとしているのよ。そうだわ、一度だけ、あの娘をたずねてきた男がいた。」
信也とジェニファーは、そのまま、彼女の記憶が甦るのを待った。
「確か、路地裏だったわ。お店のすぐ横の路地裏で、男と会っていたのよ。」
「どんな男でした?」
「若い男よ。髪はぼさぼさで、髭を生やしていた。まともな感じではなかったし、私を見て、慌てて顔をそらしたの。後ろめたいことがあったのでしょう。「『どうしたの、キャサリン?』って、声をかけたけど、あの娘はただ、『なんでもありません。』って、答えただけ。事情があるのだろうと思って、それ以上はきかなかったけど。」
「なにか言ってましたか、男のことで?」
「同郷の者とだけ。そう言われれば、それ以上はきけなかったわ。」
「どのくらい、会っていたのですか?」
「長い時間じゃなかった。路地裏で立ち話をしてただけ。そんなことがあったのは一度だけだった。二度と男は現れなかったわ。」
信也は、不満そうに溜め息をもらした。漠然とし過ぎている。ここでも、肝心なことはなにもわからないのだ。
「二人の間の雰囲気は? 関係を窺わせるような兆候はあったのですか?」
「なんとも言えないわ。ずいぶん昔のことだし。」
「恋愛関係にあったと思います?」
「そう考えたほうが自然かもしれない。でもね、一年間、あの娘と暮らしたけど、特定の男がいたような形跡はなかったわ。ああいう商売をしていると、それは、あなた、すぐ態度に表れるものよ。」
まあ、そうだろうと、信也は思った。あるいは、よほどうまくやっていたかだ。
「美鈴と、特に親しくしていた女の子はいたのですか?」
視点を変えて、ジェニファーがたずねた。
「店の娘の中で?」
「ええ。」
玉清は、もう一度、過去の記憶を呼び寄せた。
「たいていの娘たちとはうまくやっていたわよ。でも、特にというとねえ・・・」
「オフの日に、いっしょに買い物に行くような相手はいなかったのですか?」
「あの娘は、なんていうか、普通の娘たちよりランクが上だったのよ。お高くとまってたわけでもないし、垣根を作っていたわけでもないけど、みんなといっしょに麻雀もやらなかったし、カードもやらなかったわ。オフの日には、部屋で本を読んでいるような娘だったのよ。ああいう商売で、読書の好きな娘も珍しいのだけど。」
「でも、一年もいたのだから、親しい友だちがいたのではないかしら?」
「一年しかいなかったのよ。最初から長居をするつもりはなかったのね。とても賢い娘だったから、私の店を一時的なシェルターと割り切っていたのよ。たいていの娘は何年も腰を落ち着けるし、年とって引退するまで、ひとつ店で働く女もたくさんいたわ。」
信也には、あいかわらず、美鈴のイメージがつかめない。敵を作らず、静かに呼吸をしながら、ひたすら、次の機会を待っている。香港を脱け出し、外の世界で、安全と富を手に入れるために?
「ちょっと待って。あの娘がいたわ。」
突然、玉清の記憶に、灯がともったようだ。
「マギーよ。マギーだわ。」
信也もジェニファーも、だまって、彼女を見守った。
「うちには長くはいなかった。おとなしい娘で。影の薄い娘だったわ。半年もいなかったんじゃないかしら?」
「いつごろのことなんですか?」
「いつのこと?」
玉清は、眉間に皺を寄せて考えた。
「だめ、覚えてないわ。もう、ずっと昔のことだし。」
「でも、美鈴とは、たとえいっときでも、いっしょだったのでしょう。マギーが来たのは、美鈴の前でした、それとも後?」
「キャサリンが来たときは、まだいなかったわ。キャサリンが止めるしばらく前に来たんだわ。」
信也は、なぜか奇異な感じに襲われた。マギーという娼婦が美鈴の過去とどう結びついているのかは、わからない。しかし、なにかが彼のアンテナにひっかかるのだ。
「キャサリンとは同い年だったのよ。それで、なかがよかったのね。でも、美鈴ほど大人じゃなかった。どこか、ひ弱なところのある娘だった。キャサリンを姉のように慕っていたわ。キャサリンが止める少し前、別の店に移って行ったのよ。」
「どうして?」
「どうしてかしら。あちこちの店に出たり入ったりの女の子も結構いたから、特に理由といってもねえ。器量はいい娘だったから、うちよりもいい条件で雇う店はいっぱいあったはずよ。真相は、おそらくそんなところじゃないかしら。」
「どういう境遇の娘でした?」
「詳しくきいたことはなかったわ。身の上話は好きじゃなかったみたい。身寄りがないとは聞いていたけど。」
「出身は?」
「福建省のどこかよ。福建訛りの激しい娘だったわ。キャサリンと同じで、そのために仲が良かったのかもしれない。」
「マギーの本名は?」
「さっきから、ずっと思い出そうとしているのに、出てこないのよ。」
郭元培の話にも、劉克昌の話にも、マギーという名前の女は出てこない。彼女は、美鈴が娼婦時代に知り合い、売春から足を洗った時点で、付き合いが遠のいた。あるいはまた、美鈴のように、名前を変えて、別の世界に足を踏みいれたのだろうか。例えば、ポルノ映画の端役として、常に、美鈴の身近にいた可能性はある。
マギーとは、いったい誰なのか。
「マギーという名前は、確か、イギリス人の常連客がつけたのよ。最初は別の名前を使っていたのだけど、イギリス人が、なにかの歌に因んで、あの娘をマギーと呼び始めたんだわ。なんだか、そんな経緯があったのよ。」
信也は、ジェニファーに目をやった。イギリス人が因んだという曲を、オーストラリア人である彼女は知っているのか。
ジェニファーは、首を横に振った。
「マギーという名前の曲なんて知らないわ。古い歌は詳しくないの。」
マギーについては、いま、玉清をつついても、新しい事実は出てこないだろう。信也は、頭の中で、玉清の話を要約してみた。
美鈴が大陸から香港へ逃げて来たのは、一九七二年、旧正月前のことだ。香港へ着いたその日のうちに、彼女は、呉玉清に拾われた。売春宿を経営していた玉清は、キャサリンという名前で、美鈴を店に出す。彼女はすぐに売れっ子になったが、客とのトラブルから傷害事件を起こし、執行猶予の判決を受けている。
美鈴の売春時代は、一年で終わりを告げる。その間、一人だけ、身元不明の男が、彼女を訪れた。
一方、玉清の店には、マギーという名の女が働いていた。マギーは、美鈴を姉のように慕っていたが、美鈴が店を止めるのと前後して、やがてマギーも離れて行く。
玉清の話からわかるのは、この程度のことだ。これと、郭元培や劉克昌から聞いた話をつなぎ合わせれば、スワンニー・ムアンカムの香港時代の足跡のほぼすべてがわかるはずなのだ。
三人の話に共通している美鈴は、常に現状からの脱出を目指していて、敵を作らず、何かに溺れることもない。頭の中にあるのは、香港から逃げ出すことだけ。そのためには、身体を売ることも、ブルー・フィルムに出ることも厭わない。警官を刺した激しさだけが、いまのスワンニーを彷彿させるエピソードだ。
結局、なにかが欠けているのだ。三人は、思い思いに過去を語った。しかし、それぞれの話から、その後の彼女の人生を規定するような要素を見てとることはできない。
「くれぐれも、身辺には気をつけてください。」
席を立つとき、信也は、玉清に警告した。
「余計なことかもしれませんが、暗がりなどは、けっして一人で歩かないように。」
「それは、私が、旅行者であるあなたに言う言葉よ。」
玉清は笑って答えた。
「さっきも言ったけど、この香港で、あえて私を狙う者などいるとは思えないわ。」
「どういうことです?」
「私の夫は、ある種の社会では、一目置かれていたのですよ、上海でも香港でもね。古い話ですけど、夫と同時代の人たちは、みな、夫のことを慕っていました。その人たちは、すでにもう現役を引退しているのですけど、いまでも、新しい世代の人たちの間で、大きな影響力をもっています。私が、苦しいなりに、戦後の混乱期を乗り切ることができたのも、その人たちの支えがあったからなのですよ。」
信也は、うなずいた。タイのハジャイからでは侵せない聖域に彼女がいるのだとしたら、なるほど、安全には違いない。
信也とジェニファーは、礼を言って立ち上がった。
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