第1章 タイ

 

「新婚さんかい?」
市内へ向かうタクシーの中で、運転手がきいた。
「いいえ。」
奈津子と名乗る女は慌てて打ち消した。
「じゃあ、恋人どうしかい?」
「いいえ。違います。」

 そう答えてから、彼女は、この状況下では、新婚カップルでも恋人どうしでもないほうが異常なのだと気がついて、余計狼狽した。

「さすがにこの時間だとすいてるな。」
 話題を変えるために、信也が日本語でつぶやいた。早朝から夕刻までぎっしり車で埋まるこの高速道路も、夜中の12時を過ぎると、格段に流れがよくなってくる。人口600万を超える大都市に、環状鉄道も、地下鉄もなく、バスと車にだけ輸送の手段を頼っているのだ。

 タクシーの中で奈津子はすっかり口数が少なくなっている。旅の疲れというよりも、信也に対する距離のとりかたがわからないのだ。ひとり旅の開放感から、出会った男と簡単に寝るようなタイプではないようだ。

 信也は、ロイヤル・オーキッドで奈津子を降ろすと、そのままタクシーでカオザン・ロードへ向かうつもりだった。この界隈にはバック・パッカー向けのゲスト・ハウスが林立している。

 タクシーがロイヤル・オーキッドに着く。運転手が奈津子のサムソナイトをトランクから降ろす。

「じゃあ、気をつけて。」
車の外に出ていた信也は、ちょっと肩をすくめると、再びタクシーに乗り込もうとした。
「あのう・・・」

奈津子はようやく意を決したようだった。
「ご迷惑でなかったら、このホテルに一泊していただけませんか。もちろん別々の部屋ですけど。わたし、ひとりでは心細くて。」

 奈津子の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出している。日本語のわからない運転手とホテルのポーターがなにを邪推しているのか想像がついて、信也はそっと溜め息をついた。




 枕元で電話のベルが鳴っている。心地よい眠りからさめていくときの、あのなんともいえぬ、けだるい感覚が、信也の心身を支配している。大きなベッドの中に女はいない。そうだ、不審がるホテルのフロントをあえて無視して、信也は新たに部屋をとったのだ。女の弱みにつけ込んで意地汚いまねはしたくない。その一方で、なんのために高い金を払うのか、という割り切れない思いも強かった。 電話のベルはあいかわらず鳴り続けている。

「サワディカー!」
受話器から、脳天気な声が聞こえてきた。奈津子だった。

「サワディカー! ねえ、まだ寝ているの?」
「ああ。」
「わたしはもうシャワーも浴びて、シャンプーもすませたのよ。ねえ、これからレストランへ行ってブレックファーストをとりましょうよ。」
「どこで朝食だって?」
「階下のレストランよ。」
「ごめんだよ。あんな高いところ。外の屋台なら、20バーツで最上級のバミー・ナムが食えるのに。」
「だいじょうぶ。わたしのクーポンはブレックファースト・インクルーデッドなの。」
「ぼくのは、アコモデーション・オンリーだよ。」
「ねえ、お願い。わたしをひとりにさせないで。」

 やれやれ、と信也はため息をついた。〈ひとりでベッドに入れるのなら、ひとりで飯ぐらい食えばいいじゃないか。〉
 とんだ女にかかわったという思いを抱いて、彼はバスルームへ向かった。

 朝食の間、奈津子は努めて明るく振る舞おうとした。前夜は名前を教えただけで、それ以上には踏み込まなかった。朝になればお互い別れて、別の道を行くという前提があったからだ。しかし一夜明けても心細いことには変わりない。信也という男がどこまで頼りになるかはわからないが、ここで行かれてしまっては、途方にくれるのは目に見えている。かといって、事情をすべて打ち明けて、助けを求めていいのかどうかもわからない。彼女にできるのは、どっちつかずのまま、信也をつなぎとめておくことだけだ。

「よく眠れた?」
信也がきいた。
「ぐっすりよ。あなたは?」
「まあまあかな。」
「初めてのバンコクの朝。感激だなあ。」
「外国旅行は?」
「ヨーロッパへは何度も。パリ、ローマ、ロンドン、バルセロナ、リスボン、ウィーン、アムステルダム、それから、ええと、ミラノでしょ、フィレンツェでしょ、アテネでしょ、それからマドリードにベルリン。 アメリカは三回だけよ。ニューヨークにLA、ニューオリンズ。オーストラリアは一回。シドニーとゴールドコーストへ行ったわ。 ゴールドコーストに友だちがいるの。それからタヒチでしょ、カリブでしょ。ハワイは毎年かな。でも、東南アジアは初めてなの。」
「すごいな。ツアコンでもやってるのかい?」
「まさか。そんなふうに見える?」
「いや。どう見てもいいとこのお嬢さんだよ。ところで、バンコクにはどうして?」

 パパイヤを口に運びながら、奈津子は軽く首をすくめた。避けてはとおれぬところへきたようだ。
「あなたはどうして?」
「単なる旅行だよ。東南アジアが好きで、暇ができるときてるんだ。君は?」
「わたしもよ。」
「ひとり旅が好きなんだな。邪魔をしちゃって悪かったね。」
「そんな・・・」
「それで結局どうするんだい。君のほうさえよろしければ、そろそろチェックアウトしたいんだけど。」

 奈津子は唇のまわりをナプキンで拭うと、テーブルの上に置いた。
「どうしても行く、というのならひきとめません。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
「そう?」
信也はウェイターを呼び、伝票にサインして、立ち上がった。

「短い間だけど楽しかったよ。どこかで、また会おう。」
  信也がレストランの出口に向かって歩き始めると、背後で異様な物音が沸き起こった。奈津子の泣き声だった。






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