第2章 香港

 
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 入浴をさせ、食事を与えると、少女は精気を取り戻した。想像以上の美しさに、玉清は目を見張った。彼女は、美鈴と名乗る少女に商売の話をした。美鈴は覚悟しているようだった。

「あんた、生娘かい?」
美鈴はうなづいた。何十年も前に、自分が失ってしまった初々しさだ。玉清は、念入りに化粧を施した。きめの細かい美しい肌で、玉清の手が加わるごとに、商品として仕上がって行く。化粧を終えたとき、彼女は満足のため息をもらした。

「今夜から大丈夫かい?」
美鈴の肩に手を置いて、彼女はたずねた。
「ええ。」
震えるような声で、美鈴は答えた。

 玉清は、美鈴の処女をいくらで売ろうかと考えながら、階下へ降りて行った。客待ちの女たちが、パジャマを着たまま、おもいおもいの格好でくつろいでいる。

 美鈴にパジャマは似合わない。スケスケのネグリジェを着せたら、男たちは興奮するだろう。痩せてはいるが、乳房や腰のあたりは肉感的だ。ほんの少し投資するだけで、あの娘の商品価値は増すだろう。

 だが、それは、ほかの女たちにも言えることだと、彼女は気がついた。男には、ある種の職業の女を犯したいという奇妙な欲望がある。女たちに、特定の職業を連想させるような衣装を着せることで、欲望を刺激するのだ。アメリカの売春宿では、看護婦やスチュワーデスの格好をさせていると聞いたことがある。フェティシズムという言葉を彼女は知らなかったが、男の生理については、裏も表も知り尽くしていた。これまで、ただ漫然と商売を続けてきたが、自分の知識と経験を、もっともっと、活用しなければいけない。

 香港では、売春の需要は無尽蔵だ。だが、その中で頭角を表すためには、質の高い商品を集め、客の欲望を満足させてやらなければいけない。いまのようなやり方では、いずれ時代の流れから取り残されて行くだろう。

 玉清は、香港の変化を本能的に見抜いていた。街全体が変わりつつあるのだ。難民たちでひしめき合うスラムの街が、いずれは、アジアの中心都市になって行くことを、体験的に感じとっていた。

 それは、彼女が、一九二〇年代の上海に生まれ、そこで青春時代の大半を過ごしたことと密接に関係していた。戦前の上海は、欧米の列強諸国が、権益を求めてひしめきあうコスモポリタン都市だった。

 呉玉清は、一九二一年、キャバレー芸人の娘として、上海に生まれた。ものごころつく前から、奇術の脇役として、両親といっしょにステージを踏んでいた。

 持ち前の喉を生かして、ダンスホールで歌い始めたのは、一六才のときだ。もっぱら二流どころのダンスホールやキャバレーが、彼女の仕事場だった。ステージの合間には、ダンサーとして酔客の相手をしたが、そこから得るチップのほうが、歌手としてのギャラを上回っていた。

 時代は、一歩一歩、破滅的な戦争へと向かっていたが、若い玉清にとっては、刺激的な毎日だった。彼女の見えないところで謀略は渦巻き、退廃と狂躁が街を覆った。当時、彼女の周りには、有名な女スパイ鄭蘋如(テイ・ピンルー)がいた。玉清と同い年の蘋如は、中国人の父親と、日本人の母親をもつ混血の美少女で、ふとしたきっかけから、重慶政府の抗日テロ組織、藍衣社のスパイとなった。

 玉清は、蘋如が、ナイトクラブやキャバレーに出入りを始めた頃から顔見知りだった。玉清が蘋如を夜の世界に引き入れたのだ。

 ある日、蘋如は、筋の悪い女学生たちに囲まれていた。日本人の母親を持つ彼女は、学校で村八分の扱いを受けていた。事情を知らない玉清は、店の用心棒を呼んで、蘋如の危機を救った。それがふたりの出会いだった。意気投合したふたりは、同い年の気安さから、急速に親しさを増した。玉清は、意気消沈する蘋如を励まし、彼女に酒の味と夜遊びを教えた。蘋如は、すぐに、夜の世界に馴染んで行った。

 やがて玉清は、蘋如が、自分の知らない男たちとつき合い始めたことに気がついた。単なるやくざ者ではない、別の匂いのする男たちだ。

 玉清は、蘋如が危険な世界に入って行くにしたがい、徐々に距離を置くようにした。そして彼女との縁が完全に切れた頃、抗日運動に殉じたというニュースを聞いたのだ。

 当時の上海は、蘋如のような、刺激的な人物で満ちていた。玉清は、伝説的な女スパイ川島芳子や、暗黒街の帝王、杜月笙を間近に見た。時代は暗く、破滅の予感を漂わせてはいたが、人生でもっとも多感な時期を、玉清は、魔都上海で過ごしたのだ。

 彼女は、都市が発散する躍動感が好きだった。上海の躍動は、一九四一年一二月八日、太平洋戦争勃発の日まで続いた。一二月八日、真珠湾奇襲攻撃が成功すると、上海の日本軍は、外国租界を制圧した。華やかな上海の日々は、事実上、この日をもって終焉した。

 太平洋戦争中、玉清は、浦東の町工場で、女工として働いた。賃金は安く、仕事は地味で単調だったが、日本人に酌をするのは、プライドが許さない。彼女は、日本の敗北を確信していた。外国租界で欧米人と接触してきた彼女には、日本の勝利など想像外のことだった。

 日本の勢いは短かった。一九四四年には、親日的な南京政権の首班汪精衛が、名古屋で客死した。翌年八月、広島、長崎が原子爆弾で壊滅的な打撃を受けると、あっけなく、日本は降伏した。

 いったんは、祖国の勝利に酔いしれた玉清だったが、事態は悪いほうへと動いて行った。再開された国共内戦が激化し、共産党が国民党を駆逐したのだ。腐敗した国民党の敗北は自然の成り行きではあったが、機を見るに敏な彼女は、共産党が上海を制圧する直前に、香港に脱出した。

 彼女は、共産党の本質を適確に見抜いていた。共産主義者の下で、幸福にはなれないことをよくわかっていた。そしてそれは、街にとっても同じことだ。田舎出の毛沢東は、享楽的な都市の生活が憎いのだ。簡単に人を殺すように、やがて街をも殺すことになるのだろう。上海は、もう二度と、戦前の賑わいを見せることはない。上海を去ることに、彼女はなんの躊躇も見せなかった。

 香港での生活は、平坦ではなかった。ナイトクラブに職を得たが、彼女は若さを失っていた。二流の店でさえ、売れっ子ホステスになることはできなかった。玉清は、自尊心を傷つけたばかりでなく、生活上の問題とも格闘しなければならなかったのだ。

 一九五〇年、彼女は、独身生活に見切りをつけて、杜月笙傘下の若手組幹部と結婚した。杜月笙は、上海の伝説的な任侠であったが、内戦の帰趨が決した時点で上海を去っていた。玉清の夫となった男は、杜の香港移住と前後してこの町へ渡ってきた。

 灣仔のキャバレーの元締めをやっていた黄永祥は、揺籃期の香港社会で頭角を表していたが、一発の流れ弾が、将来を嘱望されていたこの男の命を奪った。一九五三年、杜月笙の死から二年後のことだ。つまるところ、玉清は、はずれ馬券を買ったのだった。

 黄永祥は、玉清との間に一人娘を残していた。彼女は、この娘を育てるために、その後の人生のすべてを費やした。選択の余地はなかった。手を汚さずに、生き残る道はなかったのだ。

 夫が残した僅かな現金が資本だった。それを、組織が裏付けした。細々と、彼女は、売春宿を営み始めた。







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