第2章 香港
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旧正月を前にして、街は沸き立っていた。その前年、中国は国連から台湾を追放し、念願の代表権を獲得していた。しかし香港は、中国の政治に対しては、無関心を装っていた。毛沢東主義者に扇動された反英暴動の手痛い教訓は、この街の人々に、政治に対して、慎重になることを教えていた。
このとき、人々の関心は、高騰するだけで下がることを知らない株式市場に向けられていた。だれもが、手にした現金を株式投資に振り向けているかのように、香港の平均株価指数は休むことなく急騰を続けていたのだ。
九龍と香港島を海底で結ぶクロス・ハーバー・トンネルの工事は順調に進み、その年の開通を待っていた。一般の人々は気がつかなかったのだが、世界でいちばん繁栄している植民地に、香港はなろうとしていたのだ。経済のテイクオフは、始まっていた。
その年、五〇才になったばかりの呉玉清は、成功の手ごたえを感じ始めていた。油麻地の廟街(テンプル・ストリート)で売春宿を営む彼女は、香港の成長と軌を一にして、商品の女の子を増やしていった。彼女は、商売上の努力を、質の高い商品の確保に傾けた。
外国人ツーリストや要人向けの高級コールガールのように、超一流の女の子たちは、シンジケートが握っている。下町の売春宿では、質の確保が最大の問題だった。中国本土で文革が激化して以来、少なくとも、数の確保は容易であった。
その夜、彼女は、旺角の裏通りを歩いていた。麻雀仲間の家を出て、文華映画館の裏手辺りにきたときだ。地下鉄は、まだ開通していない。地下鉄が開通し、旺角の駅ができるのは、しばらく先のことだ。
呉玉清は、薄汚れた少女が、寒さに震えながら、雑居ビルの入り口の階段下に腰をおろしているのに気がついた。本土から着の身着のまま逃げてきたばかりの若い女で、何日も風呂に入っていないのか、異様な匂いが鼻をつく。普通なら、顔を顰めて通り過ぎるところだろう。だが、彼女は、自分の商売には熱心だった。無造作に女の肩に手をかけると、値踏みするように、顔を覗き込んだ。
玉清は、商品に関しては、目利だった。大陸から逃げて来たばかりの、垢抜けない少女を一目見て、大きな可能性を見い出した。女は化粧次第でどうにでも化けられる。化粧を落としたときにこそ、本当の女の価値が表れるのだ。
玉清は、鼻水たらした、乞食のような少女に、ひさしぶりに心を踊らせた。
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