第2章 香港

 
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 郭元培の仕事は迅速だった。今は引退し、娘夫婦と上環のアパートでひっそり暮らしている呉玉清を見つけだしてきたのは、二日後のことだった。堅気になったとしても、消すことのできない足跡というものが、ある種の世界にはあるものだ。郭は、組織の情報網を使わずに、独自に玉清を見つけだしてきた。

 信也とジェニファーは、スター・フェリーとトラムを乗り継いで、香港島サイドにある永樂東街の酒樓へ出向いて行った。午後の飲茶の時間に呉玉清が指定したレストランは、地下鉄の上環駅のすぐ裏手にある。尖沙咀からは、地下鉄で行くのがいちばん早いのだが、二人は、もっと魅力的な手段を選ぶことにした。

 ビクトリア湾を横断するスター・フェリーは、何度乗っても飽きることがない。九龍から香港島に向かうとき、たいていのツーリストは、一ドル五〇セントで味わえる至福のひとときを目にし、中環が近づくにつれ、胸をときめかせることになるのだ。 

 午後二時ちょうどに、ふたりは酒樓に着いた。一階の入口を入り、階段を上る。二階の客席は、大きくはないが、清潔で、ツーリストではなく、地元の人々の間で信頼を勝ちとっている。そんな類いの店だろう。 

 ランチ・タイムは過ぎ去り、客の数は多くない。信也は、奥のテーブルに一人で座り、新聞を読んでいる老婆に目をやった。黒の中国服を身に着けた小柄な老人で、後頭部で丸めた髪には白いものが目立っている。外観から、過去を連想させるものは窺えない。

「呉玉清さん?」
信也は英語で話しかけた。老婆は新聞から目を離し、老眼鏡をずらして、信也を観察した。
「日本人ね? あの男が言っていた。」
「ええ。」
「座りなさい。」

信也とジェニファーは、言われるまま、テーブルについた。

「食事は?」
「済ませてきました。」
「レストランに来たのだから、なにか召し上がりなさい。」

信也はうなづいた。呉玉清は、自分のティー・ポットから二人のためにお茶を注ぐと、ウェイトレスを呼んだ。ワゴンの中から、信也は蒸し餃子と揚げ餅を選び、ジェニファーは小ぶりの肉まんと春巻を選ぶ。

「二人ともお若いのに、古い時代の話が聞きたいそうね?」

淡々と老婆は話す。二〇年前には遣り手婆あだったとは思えない。歳月が、すっかり油っ気を拭い去ったのだろう。

「その前に言っておきますけど」と、信也は、切り出した。
「この件で僕たちに会うことで、危険な状態に身を晒すことになるかもしれません。詳しい話は省略しますけど、すでに、何人かが命を落としています。僕たちは、シンジケートに目をつけられていて、僕たちが知ろうとしていることのために、接触した人々が狙われたのです。
 できれば、こうした形であなたに会うことは避けたかった。どこかのホテルの一室で、人目を避けて会うべきだった。仲介を頼んだ人間には、その旨を伝えたのですが、彼の言によれば、あなたは一笑にふし、この場を指定なさった。」

呉玉清は、茶碗を口に運びながら、小さな笑いをもらした。

「私はもう歳です。いまさら命を狙われても、怖くはないですよ。」
「でも、危険は現実的な問題です。」
信也の忠告を、玉清は聞き流した。
「この香港で、あえて私の命を狙う者がいるとは思えません。」
彼女の言葉の意味を、信也は測りかねたが、すでに引き返すことのできない地点に玉清はいたのだ。
「さあ、話しなさい。あなたが知りたいことを。」

読んでいた新聞を閉じて、呉玉清は、信也をうながした。







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