第2章 香港
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彌敦道(ネイザン・ロード)の裏通りは、華やかな表通りとは対照的に、はるかに人間的な貌をもっている。八〇年代になって埋め立てられた尖沙咀東と、彌敦道の間の不等辺三角形の地形のために、道はけっして直角に交わることはない。太かったり細かったりするアベニューやロードやストリートは、まっすぐに進んだり、弧を描いたりしながら、勝手気ままにアジア的な混沌を作り出している。
信也は、金馬倫道(カメロン・ロード)を恒生銀行の前で左に折れると、右側の路地に入って行った。袋小路いっぱいにひろがった置台の上に、色とりどりのポルノ雑誌が並んでいる。暗くなるまで間があるため、客は一人もいない。椅子に腰掛けた男が、所在なさそうに華字新聞を読んでいる。
近づくと、男は初めて顔を上げた。物好きな日本人ツーリストでないことはすぐに悟ったようだ。なにか言おうとして、言葉を飲み込み、すくっと立ち上がると、行き止まりの方向へかけ出した。
行き止まりと思えた路地の壁には、レストランの調理場に通ずる扉がついている。男は扉を開けると、中へかけ込んだ。信也も続いて調理場に入って行く。かけ入れどきを前にして、戦場のよなう光景が展開されていた。逃亡者が、太った料理人に体当たりし、北京鍋の炒めものが床に散らばった。信也は、客席で、点心のワゴンを突き飛ばし、若いウェイトレスを押し倒す。ウェイトレスの上には、蒸し餃子や肉饅頭や小龍包がぶちまけられた。
男の身軽さは、昨夜の追跡の失敗からよくわかっていた。旺角(モンコック)の裏町を熟知しているように、尖沙咀(チムシャツイ)の裏通りも、隅々まで知り尽くしていた。しかし、どんな路地に身を隠そうとしても、信也は執拗に追い続けた。金巴利道(キンバリー・ロード)であと一歩と迫ったとき、男はブティックの中に逃げ込み、試着室の中で半分裸になっていた女の子を引きずり出して、信也に投げつけた。堪富利士道(ハンフリー・アベニュー)では、露店商の果物を路上にぶちまけた。信也は、転がってくる林檎の群れに足をとられて、つまずいた。
捕まえたのは、河内道(ハノイ・ロード)のマッサージ・パーラーの中だった。古い建物の二階にかけ登った男は、ネグリジェ姿で客待ちする女の子たちの傍らを通り抜け、行き止まりの部屋に跳び込んだ。部屋の中では、腹の突き出たヨーロッパ人が、大きめの浴槽に深々と身を横たえ、フィリピン人の若い女が、自分の身体を使って、男の身体の垢を落としているところだ。
昨夜、旺角の街角で信也を狙撃しかけた男は、足がもつれて、無人のベッドの上に倒れ込んだ。信也は、男の腕をねじ上げると、部屋の外に連れ出した。まごまごすれば、マッサージ・パーラーの用心棒たちが、ナイフをちらつかせながらやって来るだろう。客待ちの女の子たちは、若い信也の勝利を見て、やんやの喝采を送った。
信也は、重慶大厦の裏手にある小さな公園に男を連れて行った。すでに観念しているようだった。疲れ果て、抵抗する気力を失っている。よく見れば、気の弱そうな中年男で、マフィアのヒットマンとは思えない。もともと暴力の嫌いな信也は、これ以上男をいたぶる気にはなれない。並んでベンチに腰かけたまま、気まずい沈黙が続く。信也は、事態をもて余した。
「昨夜はどうして銃を向けた?」
間抜けな質問だとわかっていても、それしか訊くことはない。
男はなにも言わずに、足元を見つめている。名前は? 組織は? だれの指図で? なぜ黙っている? 英語はわかるのかい? あんたは俺を殺そうとしたんだぜ? 黙りこくる手はないよ。
散発的に浴びせる質問に、男は押し黙ったままだ。
「わかっているよ。」
信也はつぶやいた。
「楊蘭芳の指図なんだろ?」
楊蘭芳の名前を出しとたん、男の肩が少し動いた。
「ここ何日間、楊蘭芳の情報を求めて九龍中を歩き回ってきた。あんたのことも覚えているよ。あの路地で、今日と同じようにポルノ雑誌を売ってたっけ。だけど、あんたは、知らないと言った。それっきり、あんたのことは忘れていた。何十人もの相手から同じことを言われたからね。
昨夜、銃で狙撃されたとき、あんたの顔を見てすぐにピンときた。ポルノ雑誌売り場の男だってね。」
「・・・」
「タイのハジャイとホット・ラインを持っているんだな。ハジャイの楊蘭芳、いや、スワンニー・ムアンカムと言ったほうがいいのかな。とにかく、あんたは、不審な日本人の存在をあの女に報告した。そして、俺を殺すように、指図を受けたんだろう。」
男は首を横に振った。
「それは違うよ。」
初めて男は口を開いた。
「楊蘭芳には連絡していない。あんたを撃ったのは、俺一人の仕事さ。」
「かばうのかい?」
「本当だよ。信じたくないのなら、それでもいいが。それから、あんたを殺すつもりはなかったんだ。単なる脅しのつもりだった。まあ、これはいまさら言ってもしょうがないんだがな。」
「いまさら言うなよ。それに、そんなに悠長に構えていていいのかい? 劉克昌のニュースは聞いたろう?」
「おまえが殺ったのか?」
「まさか。」
信也は思わず苦笑した。
「スワンニーさ。間違いない。」
「スワンニーって誰なんだ?」
「楊蘭芳さ。蘭芳のタイ名だ。知らないのか?」
「知らない。タイに渡ってからの消息については、とおりいっぺんのことしか知らないね。同郷の男の後妻におさまって、成功したんだろ?」
夕方の風が冷たい。灰色の中国服を着た老婆が、孫の手をひいて散歩をしている。尖沙咀のど真ん中にも、確固たる日常が存在しているのだ。
信也は、男の横顔を一瞥した。五〇才にはなっているのだろうか。顔の皮膚全体がくたびれきっている。それにしては、敏捷な身のこなしだ。身の軽さこそ、香港のチンピラが生き残るための必要条件なのだろう。
「じゃあ、どうして、俺を殺そうとしたんだい? 蘭芳の情報を求めてるからだろう?
あんた一人の仕事だって言ったよね。蘭芳の過去を探られて、やばいことでもあるのかい?」
「そんなものはないさ。落ちるところまで落ちた人間だよ。いまさら何を知られても、困ることなどないさ。」
落ちぶれ果てたとしか言いようのない男は、悪びれることもなく、淡々と話している。
「まあ、いいさ。それより、あんた、いま、とてつもなく危ない状況にいるんだぜ。蘭芳のことで接触した人間は、皆、彼女に殺されているんだ。タイでは二人。売春婦とそのヒモが。
香港では劉克昌さ。いま、あんたはこうして俺と話している。息のかかった香港の別動隊が、どこかで見張っていて、すぐにハジャイのスワンニーに連絡するだろう。」
「構わんさ。」
「虚勢をはるのかい? 蘭芳は、あんたの知らないところで、とんでもない女になっているんだぜ。香港時代の彼女がどうだったかはわからない。しかし、いまの彼女は、タイ南部のシンジケートの黒幕さ。指一本で、俺もあんたも、簡単にあの世行きさ。」
「構わんと言ってるだろう。」
「俺は構うんだよ。まだ死にたくはないんだ。特に、愛する女に殺されるなんてのはね。」
男は、意外そうな表情で信也を見た。
「おまえ、いったい、なんのために楊蘭芳の過去を探っているんだい?」
なんのため? きかれて信也は、思わず苦笑した。ジェニファーには理解できない理由も、この男にはわかるかもしれない。
「あんたが俺を殺そうとした理由といっしょさ。」
「なんだって?」
「あの女を愛しているんだ。」
そう言って、信也は、これまでの経緯を簡単に話してきかせた。
「彼女とは一度寝ただけだ。でもそれだけで充分さ、心から愛してるって気づくにはね。接触した動機は不純だったが、そんなことはどうでもよくなった。とにかく、俺は彼女が好きになった。好きになってみると、けっして今の彼女が幸福だとは思えなくなったんだ。確かに、ビジネスの世界で成功して、金持ちにはなっている。でも、毎日毎日、綱渡りのような人生を歩んで、人間は幸福になれるものだろうか? 彼女の人生には、なにか決定的な不幸があるような気がしてならない。そう考えたとき、彼女の過去を探ってみたくなったんだ。香港に来れば、彼女の不幸の原因がわかると思ったのさ。」
信也の話をどこまで信じたかわからない。しかし、心を動かしたことは確かなようだ。彼は、信也を真正面から見据えて、つぶやいた。
「オーケー。話すことにするよ。」
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