第2章 香港
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ドアのノックに返事がなかったとき、悪い予感が的中したことを感じていた。信也とジェニファーを送り出してから、あらためて外出したとは思えない。夜中の一二時を過ぎている。ノブをひねると、簡単にドアが開いた。
室内の惨状は、一目瞭然だった。血の海の中に、劉が横たわっている。二人は、靴を履いたまま、部屋の中に入って行った。喉を掻き切られている。素人の犯行とは思えない。年季の入ったプロの仕事だろう。室内に荒された形跡はない。
ビデオ・デッキの中を探ってみた。楊貴妃のビデオは抜き取られている。テレビの下のビデオ・ケースにも、楊貴妃は見つからない。怪しげな日本人に、どんな情報を提供したのか、犯人はしっかり聞き出したようだ。二〇〇〇ドルで流した情報は、劉克昌にとって、高いものについた。
「行こう。」
信也がつぶやいた。
「見るものはなにもない。ここにいると、背中がぞくぞくしてくるよ。」
「待って。」
ジェニファーは、彼の腕をつかんで、ひき止めた。
「指紋よ。指紋を消さなければ・・・」
「えっ?」
「この部屋には、わたしたちの指紋が残っているわ。このままじゃ、名刺を残して行くようなものよ。」
信也はうなずいた。夜中に現場付近で目撃された白人女性と日本人旅行者のカップルの噂は、いずれ警察の耳に届くだろう。香港中のゲストハウスを徹底的にあらえば、信也とジェニファーの名前が浮かび上がるはずだ。
彼は、濡れた雑巾で、二人が触れた場所を丹念に拭きとった。血の海の中に足をつっこまないように、気をつかいながら。青ざめた劉の死顔に目がいくたびに、悪寒が走る。スワンニーの身辺を探り出してから、二人目の犠牲者だ。
スワンニーなのかと、信也は訝った。おそらくそうだろう。シンジケートを通じて、動向を探っていたのだ。そして、信也に接触を試みた生き証人、劉克昌を、彼女らしいやり方で処理したのだ。
さきほどの銃撃も、スワンニーの意志によるものなのか。そうは思いたくはない。しかし、奈津子の家庭教師の前例がある。いっしょに寝た男を、なんの躊躇もなく、処分することのできる女だ。
ジャスミン茶を飲んだ、欠けた茶碗の指紋を拭き取りながら、彼は、瞬間、胸の痛みを覚えた。
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重慶大厦に帰ると、二人は慌ただしくチェックアウトした。日本人とオーストラリア人のカップルは、香港のような大都市でさえ、珍しい部類に入るだろう。深夜の銃撃戦や、劉克昌のアパートの中で、二人が目撃された可能性は否定できない。捜査の手が入ったとき、ゲストハウスのマネージャーは、すぐに二人の部屋を指さすだろう。
大厦の中には、無数のゲストハウスがひしめき合っている。その中から、ジェニファーは三階の、信也は四階の招待所に、偽名でチェックインした。
ジェニファーは、自分の部屋に荷物を置くと、すぐに信也の部屋にやって来た。銃撃戦と、劉克昌の死がもたらしたショックを柔らげるため、シングルの窮屈なベッドの上で身体を密着させながら、信也は、これまでの経緯を話し始めた。スワンニーに対する複雑な感情についても、包み隠さず話したが、ジェニファーがどこまで理解したかは疑問だった。
「わたしたちの狙撃も、劉の殺害も、スワンニーの指示によるものなの?」
「多分ね。それ以外、説明がつかない。それとも、君には、香港で狙われる事情があるのかい?」
ジェニファーは首をふった。
「香港は初めてよ。」
「それなら、今度のことは僕の側の事情からきている。ただ・・・」
信也は、次の言葉を躊躇した。スワンニーは本当に彼を殺そうとしたのか。一夜の情事であっても、息づかいや肌のぬくもりは、生々しく覚えている。あれは、わずか数日前のことだ。たとえいっときでも、彼女の愛情は信也に向けられた。人形に飽きた子供のように、そんなに簡単に、愛した男を葬り去ることができるものなのだろうか。
それにもし、本気で彼を殺すつもりなら、ハジャイで殺すべきだったのだ。香港のシンジケートに、どれだけ彼女の影響力が及んでいるかはわからないが、少なくとも、ハジャイはスワンニーの本拠地なのだ。そこでなら、指一本で彼を殺すことができたはずなのに。
「これからどうするの?」
ジェニファーは、ベッドの上に起き上がり、赤いポーチの中から、タバコを取り出した。
「続けるだけさ。」
「でも、危険よ。」
信也は黙ってうなずいた。
「このまま、日本に帰るわけにはいかないんだよ。」
「男のプライド?」
「それほどのものじゃない。ただ、やりかけたことを途中でほうり出すことができないんだ。」
「でも、具体的に、どうするつもりなの?」
「心当たりはあるんだよ。」
彼は、ジェニファーのタバコを取り上げると、大きく煙りを吸い込んだ。
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