第2章 香港
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「楊貴妃を撮ったとき、俺は助監督をやっていた。助監督といっても、俳優を仕込んだり、小道具を揃えたりと、まあ、雑用係みたいなものさ。
「楊蘭芳は監督の孫紹林が連れてきた。この手のフィルムは二本目ということだったが、最初の映画も孫が撮ったらしい。彼女は、孫が発掘した秘蔵っ子ってわけさ。楊蘭芳って名前も、この映画にあわせて孫が考え出した。その前になんて名乗っていたのか、俺は知らない。
「この映画の彼女は完璧だった。ポルノ映画の仕事なんて、むなしいものだが、これに関しては、撮っているときに、なんていうか、いい仕事をしているという充実感があったな。たとえポルノでも、一流の仕事をしているときには、気持ちが自然に昂揚してくるものなんだ。
「その頃、楊蘭芳は、まだ二〇才にもなっていなかったが、すでに風格というものがあった。野心と才能ではちきれんばかりというか、一方で、野心のはけ口を求めているようでもあった。チャンスをつかみたいと言っていたが、ポルノ映画の仕事には、そのチャンスがないこともわかっていたんだな。
「過去はあまり話したがらなかった。ただ、映画の世界に足を踏みいれるまで、モデルの仕事をしていたということと、彼女のなまりから、福建省出身だということはわかっていた。
「俺の知ってるかぎり、ヒモもパトロンもいなかった。孫の女ではなかった。そう思うこともあったが、孫では不釣り合いだった。一度や二度、なにかの折りに寝たことはあったかもしれんが、普段は、孫に対しても誰に対しても、衿持を保っていた。職業が人間性をスポイルしてはいないんだな。たいていの女は、ああいう仕事をしていると、自分を安売りするものさ。だが、あの娘は違ってた。これは、次へ行くためのワンステップだということを、よく心得ていた。
「これが大事な点さ。性を売る仕事をしていると、徐々に身をもち崩していくものだが、何人かの頭のいい娘は、それを踏み台にして、のし上がって行く。蘭芳は、後のタイプだった。
「もし、あの娘が、無一文で大陸から逃げてきたのではなく、香港や台湾の中産階級の家に生まれていたなら、きっと、映画の世界でも大成功を収めただろう。だが、一度でも裏の世界に足を踏み入れた人間を、表の世界は受け入れることはない。映画産業というのは、夢を売る存在さ。夢を売る主演女優に、忌まわしい過去があってはいけないわけさ。
「あの娘にしても、自分から望んでポルノ映画の世界に入ったわけじゃない。それしかなかったわけさ。可哀想だが、それが香港の現実でもあったし、彼女は、その現実をきちんと受け入れた。命からがら大陸から逃げてきて、生きるために、自分の性を売ることになったが、食うためだけでなく、のし上がるために、あの娘はそれをやった。
「たいていの女のように、稼いだ金を、ヒモに使うことも、麻薬に使うこともしなかった。たいていの女は、運命に負けてしまうんだ。稼いだ金を、寂しさをまぎらすために使ってしまう。そして、ずるずると、深みにはまるのさ。」
「孫紹林は、その後、どうしてる?」
「死んだよ。」
劉克昌は、あっさりと答えた。
「一九七六年に。肝臓ガンで。」
「毛沢東の死んだ年だな。」
「毛沢東が死に、周恩来が死に、天安門事件があった年さ。激動の一年だった。毛沢東の死後、四人組が逮捕され、中国人民は、文革のくびきから解放されたわけだ。」
「そのとき、楊蘭芳は?」
「香港を離れていた。」
「楊貴妃の後、彼女とのかかわりあいは?」
「いや。」
劉克昌は首を振った。
「あれっきりさ。」
「蘭芳がタイに渡った経緯については?」
「彼女はコミュニストを嫌ってた。大陸から逃げて来た人間はみなそうさ。大陸でよっぽど酷い目に会ったんだろう。最初から香港に永住するつもりはなかったんだ。一九九七年には、コミュニストがこの街を支配する。それまでに、安住の地を見つける必要があった。ブルー・フィルムやポルノ写真のモデルをやって小金を貯め、脱出の機会を作ったんだよ。」
「タイへは、どうして?」
「親戚がいたからだろう。詳しい事情はわからんよ。彼女がタイへ渡ったとき、つき合いはなかった。香港を離れて、だいぶ経ってから、その話を聞いたくらいさ。」
「その頃の関係者で、誰か消息は?」
「いや。」
劉は、躊躇なく答えた。
「古い時代の話さ。二〇年前のことだろ?ここでは、すべてが、めまぐるしく変わる。俺自身、映画の仕事を離れて、もう一五年以上になる。」
信也は落胆した。この男は、なにも知らないのだ。スワンニーが香港でいかがわしい職業についていたことは、漠然と想像していた。劉克昌は、その証拠を、あからさまな形で突き付けただけなのだ。
信也とジェニファーは、劉克昌のアパートを出て、旺角の街を歩いて行った。夜も更け、人通りは少ない。旺角は九龍の中でも下町色の強い一帯で、高層アパート群の西側には町工場が密集し、北側は造船所で、その向こうには海が広がっている。いま、昼間の喧噪は消え、家路に急ぐ労働者たちの足音も絶えている。
二人の吐く息は白く、夜の静けさの中に吸い込まれて行った。
頬のあたりを、熱い空気が切り裂いた。爆発音が聞こえたのは、一瞬後のことだ。とっさに信也は、ジェニファーの身体を押し倒した。もう一度、爆発音が聞こえる。歩道の、ブリキのゴミバケツが派手な音をたてた。頭を低くしたまま、頬を撫でてみた。血は流れていない。
地を這うようにして、近くの路地に逃げ込んだ。もう一度銃声がする。銃声の方角は一定だ。相手は一人。しばらく息をひそめて、相手の出方を窺った。しばし、沈黙が続く。信也は、通りの歩道上の消火栓に目をやった。待つことが苦痛になっていく。立ち上がると、数メートルの距離をいっきに駆け抜けて、消火栓の後ろに身をかくした。二発続けて銃声が聞こえた。恐怖感はない。反対側の路上に停めてあるバンの後ろに、狙撃者の影が見えてきた。
《二秒もあれば・・・》と、彼は考えた。《二秒もあれば、バンにたどり着ける。バンにたどり着けば、銃から身を守ることができる。》
全身のバネを使って跳び出し、三秒かかって、車にたどり着いた。ウィンドーごしに、相手の顔が見える。劉克昌を思わせる、中年の貧相な男だ。劉と同じように、スワンニーの過去から現れた、哀れな亡霊だ。
男は、恐怖にかられて逃げ出した。信也が追うと、振り向いて銃口を向けた。弾はそれて、商店のシャッターに小さな穴をあけた。
しばらく信也は、旺角の裏街を走り続けた。男は敏捷で、なにより街を熟知していた。息がきれ、足がふらつきはじめると、信也は追跡を諦め、ジェニファーのところへ戻った。
「だいじょうぶ?」
ジェニファーがきいた。信也は、息をはずませ、首を縦に振る。
「君のほうは?」
「だいじょうぶよ。それより、ねえ、これって偶然かしら? それとも、あなたの探している女優さんのせいで、銃撃を受けたの?」
「後のほうさ。間違いない。」
「そうだとすると、劉克昌が危ないわ。」
信也の脳裏にハジャイで殺されたニワットの死顔がよぎった。
「行ってみよう。」
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