第2章 香港
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薄汚れた高層アパートの一室で、信也とジェニファーは、TVの画面を食い入るように見つめていた。たったひと間の部屋に、年代もののベッドが置いてある。かび臭いマットレスを、ほころびかけた毛布が覆っている。トイレも浴室もない、難民アパートを思わせるような粗末なつくりだ。劉克昌と名乗る男のアパートで、欠けた茶碗のジャスミン茶を飲みながら、床に直接腰を降ろして、二人は、ポルノ・ビデオに見入っている。
古い映画をビデオに落としたものだろう。画像は鮮明さを欠き、フィルムの傷が断続的に画面を乱す。色褪せたフィルムの中では、唐の時代の高貴な女が、薄い絹の寝間着を着けたまま、皇帝の寵愛を受けている。豪奢に包まれた寝室の中で、うつ伏せになり、額にうっすらと汗をにじませて、つつましく喘いでいる。しかし、水色の、絹のネグリジェの下半分は、たわわにうごめく腰の上までまくれ上がり、豊かな、満月のような尻の奥に挟まれた不可思議なものを露にしている。奇妙ではあるけども、心地よく秘密めいたそのものは、びっくりするくらいに大きな皇帝の男根をくわえ込み、ひと突きされるごとに、透明の、蜜のような液体をにじませる。
楊貴妃と玄宗皇帝のメロドラマは、楊貴妃の最初の夫、寿王との新婚初夜から始まった。初夜の床入りに先立つ男と女の喜劇的なかけ合いは、この映画の統一的な情緒を暗示するかのようだった。登場人物はみな、奇妙な妄執を抱いていて、それゆえ、楊貴妃とは、精神的に正常な関係には至らない。男たちは、性器と性器を結合させながら、自らの歪んだ自我を通して、過去を回顧する。彼らが振り返る過去は、現代の日常生活の風刺的なコラージュのようでもあり、荒廃した精神が織り成す白日夢のようでもあった。
ただひとり、無邪気なまでに健康的な楊貴妃は、感情と欲望の赴くままに、映画の始まりから終わりまで、ほとんどすべての登場人物と関係を結ぶのだ。安禄山の反乱で謀反人たちにレイプされるときでさえ、彼女は、歓喜にむせび泣く。
およそ一時間半もの間、信也とジェニファーは、まんじりともせず、このビデオに見入っていた。この手の映画が初めてというわけでもないのだが、しかし、楊貴妃の悲劇を題材にしたこのハードコア・ポルノは、かけねなく素晴らしく、若い信也の官能と想像力を刺激する。どんなポルノグラフィーも、扱う素材はただひとつだ。その中で、女優の質だけが作品の優劣を決める。映画「楊貴妃」は、最上級のポルノグラフィーとして、見ている信也を狂おしくした。それは、なににもまして、楊貴妃を演じた楊蘭芳(ヤン・ランファン)の美しさと、内面から滲み出る妖艶さに負っている。女優の、性に対する確固たる執念が、フィルムに生命を与え、見ているものの身体を震えさせるのだ。
官能をきわめ、すすり泣くように吐息をもらし、たわわに身体を揺らす、フィルムの中のスワンニー・ムアンカムを見て、信也は泣き出したい衝動にかられた。なんて美しい女だろう。中年という年令が近づいているのに、あれだけ彼を狂わせた女の、二〇年前の姿がここにある。
数日前に、彼女と交わした情事のことが、フィルムの中の出来事とオーバーラップして、信也を苦しめた。彼女が生涯で最高の女だということを、彼はよくわかっていた。そして、最良のものは、えてしてすぐに行ってしまうものなのだ。もう二度と、スワンニーを手に入れることはできないだろう。そう思って、彼は悲嘆にくれた。一度去ってしまえば、そして二度と帰ることのないものなら、数日前も二〇年前も同じことだ。二〇年前の、色褪せたフィルムの中の男優のように、彼は、自分が滑稽で物悲しい存在だということを認識した。奈津子のかっての家庭教師、川本耕介も、同じような感情に襲われたのだろうか。スワンニーがかかわりを持ち、見捨てていったすべての男が、同じような悲しみに襲われたのだ。
香港の、絵に画いたような下町の高層アパートの一室で、信也は思いがけなく過去に遭遇した。そしてそれは、充分に悲しいものであった。
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