第2章 香港

 
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 香港に着いてから三日間、信也はあてどなく九龍のダウンタウンを歩き続けた。ヤン・ランファンが誰であれ、その名前にかかわりのある場所は、上品なところではないのだろう。路上のポン引きやストリップ・バーの用心棒、ポルノ雑誌売り場のチンピラに至るまで、彼は声をかけ続けた。何度か危ない思いもしたが、そのつど、身をかわすことができた。しかし、ヤン・ランファンの素性に関しては、なんの手掛かりを得ることもできなかった。

 九龍は狭いところだ。三日間で盛り場は歩きつくした感がある。重慶大履のゲストハウスにも情報は届いていない。簡単にいくと思っていたわけではないが、それでも、三日間の探索が徒労に終わったと思うと、疲れが吹き出してくる。

 四日めの夜、信也は、ジェニファーを食事に誘った。彌敦道をぶらぶらと歩きながら、佐敦駅までたどり着く。ここから北が、尖沙咀に隣接する香港の下町、油麻地だ。彌敦道とクロスする大きな通り、佐敦道を西側に入ると、無数の小道が北に向かって走っている。信也とジェニファーは、そのうちのひとつ、廟街へ入って行った。廟街には、夕方から深夜にかけて、香港では最大のナイト・マーケットが開かれる。南は南京街から北は文明里まで、南北に広がる数百メートルの路上に、無数の露店が繰り出し、観光客と地元民で賑わう。

 二人は、廟街のナイトマーケットを楽しんだ後、通りいっぱいに繰り出す屋台に腰を降ろして海鮮料理を味わった。目の前の皿に、オイスター・ソースで炒めた赤貝が山のように積まれている。ジェニファーは、器用な手つきで箸を扱い、殻の中から貝を取り出す。信也は、炒めた青菜をビールで流し込む。

  蒸したエビと、アサリ炒めを注文した信也は、そのとき、近くのテーブルに座ってビールを飲んでいる男に気がついた。四〇代半ばだろうか。痩せて背の高い貧相な男だ。欧米人の観光客や、地元の家族連れにまじって、男が一人でテーブルに着いているのが珍しい。信也が見ると、不自然に目をそらす。

 食事の間、男は、信也を観察し続けた。ジェニファーが気づいて、それとなく合図を送る。ジェニファーは信也が香港に来た目的を知らない。しかし、単なる観光客やバック・パッカーでないことは気づいているようだ。信也も、ジェニファーに、男の存在に気づいていることを知らせる。しばらく、二人はとりとめのない話をしながら、食事を続けた。その間、男は、ビールと、軽いつまみをとりながら、テーブルにへばりついている。信也とジェニファーがチェックをすませ、立ち上がると、男も続いて立ち上がった。

 二人は廟街を南に下り、南京街を右に折れた。彌敦道とは反対の方向だ。そして廣東道の手前の細い路地に入って行った。古い高層アパートから、色とりどりの看板が道路に突き出している。

 信也は、ジェニファーに、かかわらないよう促した。しかし彼女は、信也の秘密に興味を抱いたようだ。男の視界に入る前に、二人は、ビルの入口に身を隠した。やがて、男が、角を曲がって、二人のいる建物の前までやってきた。

 信也は、男の腕をつかみ、ビルの中に引きずり込んだ。素早く服の下をチェックする。武器は隠していないようだ。不意をつかれて、男は狼狽している。信也は、腕をひねり上げ、壁に身体を押しつけた。

「なぜ、つけてくる?」
男は答えず、呻き声をあげる。もう一度、彼は、男の腕をひねり上げた。

「やめろ! やめろ!」
英語で、男は懇願する。
「腕を折るのは簡単さ。だが、もう一度チャンスをやるよ。なぜ、つけてくる?」
「楊蘭芳(ヤン・ランファン)さ。」
「なんだって?」
「楊蘭芳さ。あんたが探してる女だよ。」

信也は、男を押さえる力を緩めた。

「楊蘭芳を探してるんだろ? 場合によっては力になれるのに。」
「最初から、そう言えばいいのさ。」
「そうはいかんよ。情報を売るんだ。売る相手を見定めてから、交渉に入るのが常道さ。あんたがマフィアだったら、金よりも、俺は自分の命を選ぶだろうからね。」

自由を取り戻した男は、息をはずませながら、香港産の煙草に火をつけた。

「楊蘭芳について、何を知ってるんだ?」
「それは金次第さ。二千ドルで知ってることはすべて話すよ。」
「その情報が二千ドルに価するかどうか、どうしてわかる?」
「それは誰にもわからんね。百万の価値があるのかもしれんしな。あんたに払える最大限が二千ドルとみたわけさ。」

信也は逡巡した。香港通貨で二千ドルというのは、それほどの額ではない。しかし、彼に払える最大限の額であることも確かなのだ。チンピラはチンピラなりに、交渉相手はしっかり観察しているようだった。







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