第2章 香港

 
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 結局、ジェニファーは、彼女の予算に10元追加して、17階のゲストハウスにチェックインした。値切りの交渉は、信也も彼女もお手のものだ。初老のマネージャーは、二人の波状攻撃に耐え切れず、280元のダブル・ルームを220元で提供することにした。信也とジェニファーは110元ずつ出し合って、大きくて清潔な部屋に入っていった。そして、ドアのキーをロックし、荷物を置くと、ドアにもたれて激しく抱き合い、もどかしそうに服を脱ぎ始めた。

 信也は、立ったままジェニファーを抱き上げ、彼女の背中をドアに押しつけた。誰かが廊下を通ったら、中で行われていることを想像して苦笑をもらすだろう。しかし若い二人は、気にもしない。ひんやりとしたお互いの身体が上気して、やがて汗ばみ始めた頃、信也は崩れ落ち、ジェニファーは軽く身体を痙攣させた。

 ベッドの上で、ジェニファーのブルネットの長い髪に左手をあて、右手で彼女の乳房をさすりながら、陶酔感にしばらく身をゆだねていると、タイで負った心の痛みがしばし薄らいでゆく。

 バンコクのドンムアン空港を発つとき、奈津子が彼を見送った。CXのカウンターでチェックインを済ませた信也に、ニヤニヤしながらウィンクを送る。

「耕介さんのことなら、もういいのよ。」
機内に持ち込む信也のバッグを手渡しながら、彼女はつぶやいた。
「つまらないことに巻き込んでしまってごめんなさい。」

なにも言わずに、奈津子に手を振り、彼は、パスポート・コントロールに向かって歩いて行った。

 タイで失踪した川本耕介は、すでに重要性を失っている。彼の心の中にあるのは、スワンニーのことだけだ。ハジャイで殺されたニワットが、いまわのきわに残した言葉『ガウロン』とは、おそらく香港の九龍のことに違いない。『九龍』は、英語読みでは『カウルーン』だ。日本人は通常『クーロン』と呼んでいる。これは北京語の『チューロン』からきているのだろう。広東語で『ガウロン』と読むことを、信也は忘れていた。ソーイが、タイ語でガウとは9の意味だと言ったとき、気がつくべきだったのだ。タイ語の多くは、中国語からの借用で、これは日本語と同様だ。しかしタイ語の場合、地理的な条件から、その多くを華南系の言語に源を発している。 

 スワンニーとニワットの接点は、香港にある。『ヤン・ランファン』とは、中国人の女の名前だ。ヤン・ランファンがスワンニーの香港時代の名前かどうかはわからない。しかし、ニワットはダイイング・メッセージとしてその名前を残した。その名前にスワンニーの秘密が隠されているはずだ。

「香港へ行こう。」

 信也は、二日酔いの頭で考えた。ハジャイでは、スワンニーに完全に翻弄された。ソーイを失い、奈津子もソーイといっしょにバンコクに帰って行った。この屈辱感に打ち克つために、スワンニーの秘密を握るのだ。







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