第2章 香港

 
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 異様な光景だった。高層住宅の群れが、眼下にではなく、視線と平行して走っている。高度2,400メートルでランタオ島に突入したCX700便は、島の西部、石壁のあたりで機体を90度回転させると、さらに高度を下げた。数百人の乗客を載せた、このキャセイ・パシフィック機は、島の北部でもう一度、向きを変えると、そのまま九龍半島に突入した。

 香港アプローチと呼ばれるこのルートは、啓徳国際空港に通じている。世界の主要空港の中でも、離着陸が困難な、いわくつきの国際空港で、ビルとビルの間を飛行機がすり抜けて行く様子は、古いフランス映画を信也に連想させた。リノ・バンチェラとアラン・ドロンが主演したこの映画の中で、パイロットに扮したアラン・ドロンがエッフェル塔の脚の間をセスナ機ですり抜けるのだ。映画の中のドロンは陳腐なヒーローだったが、ここでは、ただのパイロットたちが、日常茶飯事の奇跡を演じ続けている。

 機体を右に傾けたまま着陸体勢に入ると、信也は、軽いめまいを感じた。いろいろなことが、心に重くのしかかってくる。ソーイとは、ついに和解ができなかった。スワンニーの寝室から電話したことが、ソーイのプライドを引き裂いたのだ。

 あの夜、何度もスワンニーと肌を重ねた信也は、朝になって死んだように眠りについた。夕方、目を覚ましたとき、ベッドの中にスワンニーはいなかった。重い身体を引きずりながら帰ってきた信也は、そのまま、南海酒店のソーイの部屋に直行した。しかし、彼女は会おうとしなかった。ハジャイ・ロイヤル・ホテルから、何度も電話をかけたが、電話にでた奈津子は、ソーイの気持ちが堅いことを告げるだけだ。

 その日、ソーイと奈津子は、バンコクに帰って行った。ハジャイに一人取り残された信也は、屋台で、あびるようにメコンを飲み続けた。どこをどうしてホテルへ帰ったのか、まるで覚えていない。目を覚ましたときは、翌日の朝だった。

 ゴツンという音がして、機体は着陸した。機長の名人芸に、誰かが拍手した。しかし信也は、ほほ笑む気にもなれない。バッゲージ・クレームで荷物を受け取ると、空港を出て、太子道のバス停へ向かった。ひんやりとした空気に、寒気を覚える。真夏のタイから冬の香港へと、急激な気温の変化が彼を襲う。待つ間もなく、1Aのダブル・デッカーがやってくる。3.5元払って、彼はバスの二階に登って行った。

 最後部の座席につき、窓の外に目をやった。日本の冬と比べると、さすがに日差しは柔らかい。コートを脱いだとき、斜め前に座ったブルネットの女と目があった。

「ハーイ」

女が話しかけてきた。アメリカ人という雰囲気ではない。オーストラリア人だろうか。

「どこから来たの?」
「タイから。」
「ほんと? タイ人とは思えないわ。」
「日本人さ。バンコクから来たんだけどね。君は?」
「オーストラリア人よ。ペナンから飛んで来たの。」
「信也」と言って、彼は右手を差し出した。

「ジェニファー」
女は、信也の手を握った。

「香港は初めて?」
「いや。何度か来ている。君は?」
「初めてなの。噂どおり、スリリングな着陸だったわね。噂どおり、スリリングな街だといいけど。」
「スリリングな街だよ。僕が保証する。」
信也は、請け負った。

「それはよかっわ。」
ジェニファーは、そう言いながら、外の景色に目をやった。空中に突き出たレストランの看板が、ダブル・デッカーの窓にぶつかりそうになる。

「隣へ移ってもいい?」
ジェニファーがきいた。

「一人でずっと旅してきたので、ときどき寂しくなって、誰か話し相手がほしかったの。」
「もちろん。」
信也はうなずいた。

「ここへ来るまでの話をさせてね。」
最後尾の席に移ると彼女は話し始めた。

「会計事務所で働いていたオージーは、退屈な仕事にうんざりして、事務所を辞め、バック・パックひとつかついで、シドニーを旅発ちました。バリのクタ・ビーチでは、二週間かけてギアーツのたいていの著作を読破したわ。そこからジャワへ渡って、ボロブドゥールの遺跡を見に行きました。でも、ほんとうに感動したのは、プランバナンの遺跡よ。遺跡を背景に、野外シアターで、満月の夜、四夜連続で繰り広げられるラーマヤナ舞踊は、わたしのアジア観に決定的な影響を与えたと言っていいでしょう。
「そこからスマトラに渡り、シュリヴィジャヤ時代の遺跡を見てから、西スマトラのミナンカバウの村を訪れました。ブキティンギで、典型的な女系社会の有り様をつぶさに観察した後、シンガポールに出て、スタンフォード・ラッフルズの時代に思いをはせたわ。その後、コーズウェイ水道を渡り、ジョーホー・バルーからマレー半島を北上したのよ。」
「オーストラリアはどこから?」
「ゴールドコーストよ。おかげで、日本人はいっぱい見てきたわ。友だちが日系のホテルで働いているけど、日本人て、とても勤勉なのね。」
「ビジネスマンはね。」
「あなたは?」
「アリとキリギリスのうちではキリギリスのほうさ。フリーランスのライターをやっているんだけど、お金が続く限りは世界中を旅して回って、お金がなくなると、ものを書き始めるんだ。」
「香港へはなにをしに?」
「人を探しに。」
「ガールフレンド?」
「さあね。」
「ホテルは決まっているの?」
「重慶大厦へ行くつもりさ。」
信也は、尖沙咀の彌敦道(ネイザンロード)に面した安宿ゲットーの名前を挙げた。重慶大厦は、香港の九龍半島サイドのメイン・ストリート、彌敦道に面して建っている。

 この通りの、尖沙咀側の一マイルには、国際的なホテルやショッピング・センターが林立し、黄金の一マイルと呼ばれている。その中で、ホリディ・インに隣接する17階建の薄汚れたビルが重慶大厦で、AからEまで、五つのブロックに分かれたビルの中に、100以上ものゲストハウスが詰め込まれている。外観の薄汚さとは対照的に、ゲストハウス自体は意外と清潔で、部屋の狭さに目をつむれば、バジェット・トラベラーにとっては、天国のような場所なのかもしれない。

「ねえ、部屋をシェアしない? 私の予算は一泊あたり100香港ドルよ。二人でシェアすれば、200ドルの部屋に泊まれるじゃない。」

考える必要もないことだ。信也は、すぐに彼女の提案に同意した。







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