第1章 タイ

 
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「ミスター・ノブヤ?」

澄んだ、美しい声だった。

「マダム・スワンニーがあなたをお待ちです。」

信也は、ベッド・サイドのデジタル時計に目をやった。午後7時。一分の狂いもない。

「ロビーまで降りてきていただけますか?」

オーケーと答えて、彼は受話器を置いた。



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 美しい声の持ち主は、マーニーと名乗った。白い肌が痛々しいくらいに清楚な、10代の少女だ。肌と同じくらいに白い、シルクのタイ・ドレスを着けている。透きとおるような黒い瞳に見つめられて、信也は、少しどぎまぎした。病的なくらいに美しい長い髪の少女は、タイ式の、実に優雅な合掌で信也を迎えた。信也の心を溶かす、タイ女性のマジックだ。

 マーニーは、信也の内心の動揺に気づくこともなく、路上に止めてあるベンツに導いた。助手席に座った彼女は、車の中で、終始沈黙を守った。スワンニーの教育が行き届いているせいだろう。謹み深さが、しぐさのひとつひとつから窺える。

 信也は、後部座席から、この美しい少女の後姿を鑑賞した。洗ったばかりの漆黒の髪から、かぐわしい香油の香りが漂ってくる。細身の身体には、柔らかそうな肉が過不足なくついている。女としての匂いを極力消そうとしているのだが、隠しきれない年齢にきているようだ。

 二人を乗せたベンツは、スパサラングサン・ロードを東へ向かった。およそ10分ほど走り、街の外縁を形成する幹線道路カンチャナワニット・ロードへ出ようとしたとき、車はスワンニーの屋敷に着いた。西洋スタイルにタイ風の解釈が施された、白い壁の大きな屋敷だ。

 ソンクラーでは、これみよがしに門衛が睥睨していたが、ここではそんなこともない。スワンニーを襲う勇気のあるものなどいないということなのか。 信也は、マーニーに導かれて、屋敷に入って行った。玄関で靴を脱ぐ習慣は、アジア全域で共通のものだ。広いホールの天井は、日本の建物に慣れた信也には、異様に高く映る。大理石の床が、ひんやりと心地よい。

 二階へ上がり、中華風の装飾が施された黒檀の扉を開けると、紫色のチャイナ・ドレスに身を包むスワンニーが待っていた。昼間、オフィスで会ったときとは、別人のようだ。美しく着飾り、念入りに化粧をしている。羽根のついた扇を胸の前にかざして、信也に微笑みかける。背筋がぞくっとするくらいに、素敵な微笑だ。

「ようこそ。」

スワンニーは、簡潔に言った。

「驚いたな。」
「なにが?」
「君のことさ。一瞬、別人かと思ったよ。」
「オフィスと私生活は、きちんと使い分ける主義よ。」
「使い分けがじょうずなんだな。いままで、そういう女性には会ったことがないんだ。」
「あなたは、まだ若いからでしょう。とにかくお座りになって。隣の部屋に食事を用意しているの。でも、その前にお酒を召し上がってね。」

信也は、香港の骨董家具屋で見かけるような、明朝風の風雅なソファに腰を降ろした。

「ソーイと奈津子にも来てほしかったわ。中国の料理は、みんなで食べるほうが楽しいのに。」

とんでもない、と信也は思った。スワンニーの、この美しさを見たら、ソーイも奈津子も、嫉妬に狂って食事を楽しむどころではないだろう。

 スワンニーは、信也には名前のわからない中国酒をグラスに入れて持ってきた。氷で冷やした、苦みのある不思議な酒だ。彼女は信也の脇に座ると、熱い眼差しで彼を見た。今夜の出来事を予感させる、狂おしいくらいに素敵な視線だ。信也は、ここへ来た目的も、奈津子に襲いかかった不幸な事件も、うっかり忘れそうになった。スワンニーに対する怒りや疑惑が、あっという間に溶けて行く。

 信也は、自分の感情に対して後ろめたさを意識した。スワンニーを糾弾するために、今夜ここへ来たはずだったのだ。

「今日、奈津子が襲われた。」

不快そうな表情を無理やり作り出し、彼は切り出した。

「君の指図なんだろ?」
「ごめんなさい。」

意外なことに、スワンニーはあっさり謝った。

「憎らしかったのよ。あの若い娘たちが。あなたみたいな素敵な人がそばにいて、関心をかっていることが。わたしは、もう、おばあちゃんでしょ? あなたを魅きつけることなんてできないわ。そのことがとても悔しかったの。」

なんという空虚な嘘だろう! 空虚な嘘だということを、信也もスワンニーもわかっている。それをわかったうえで、彼女はせせら笑っているのだ。奈津子やソーイのことなど歯牙にもかけていないし、信也など軽く丸め込めると信じているのだ。そのことに対して絶対的な自信を抱いているからこそ、つける嘘なのだ。

 同じソファに座っているだけで、股間が膨れ上がってきてることを、スワンニーは確実に見抜いている。つまるところ、彼女は、信也のリピドーを思うまま操ることができるのだ。

「愚かだったわ。」

スワンニーは、しおらしくつぶやいた。

「でも、奈津子が無事でよかった。もう、あんなこと、二度としない。約束するわよ。」
「二度とさせないさ。それに、クレージー・スポットのアリサはどこにいる?」
「なんのこと?」
「失踪した中国人ダンサーさ。彼女は何も喋っちゃいない。君に対しては忠実だった。彼女を開放してほしい。」
「ねえ、信也」

スワンニーは、もう一度、ぞっとするくらいにセクシーな微笑を投げかけた。

「そのことはなにも知らないの。それに、食事の前にする話題ではないわ。」

彼女は、信也の手をとると、立ち上がるように促した。

「食事をしましょう。今夜はきっと長くなるわ。」







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