第1章 タイ

 
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 ハジャイ・ロイヤル・ホテルに面した信号機は、歩行者にとって不親切きわまりない。もともとこの国では、車優先の思想が徹底しているのだ。横切ろうとする歩行者は、排気ガスを浴びたまま、40度近くに昇る酷暑の中で、何分間も立ちすくむことになる。現実的なタイ人たちは、自らの運命を、信号にたくすことをやめてしまった。青であろうと、赤であろうと、渡りたいときに彼らは渡るのだ。規則でタイ人たちは縛れない。

 フル・スピードで駆け抜ける車と車の間を、大人も子供も、実に器用にすり抜けて行く。

 信也は、タイ人たちに混じって、道路を渡り始めた。歩行者を蹴散らそうとする車のクラクションが、街の喧噪を一層高めている。

 渡り終えたとき、ホテルの入り口から、見知った女が出てくるのに気がついた。スワンニーの女秘書、カトレヤだ。彼女は、ホテルに隣接した駐車場に行き、白いコロナに乗り込んだ。

 特になにかを感じたわけではない。しかし、彼は、小型トラックを改造した、ピックアップ・バスを呼び止めた。トラックの荷台に、二列のベンチを取り付けて客席にしたソンテオウは、ハジャイの街のあちこちを走っている。

 信也は、運転手に、白いコロナを追うように言った。意志の疎通に時間はかかったが、とにかく彼はわかったようだ。ソンテオウに他の客がいないのは幸運だった。

 信也は、荷台の小窓に顔をつけた。車は、カトレヤのコロナを忠実に追っていた。一方通行の規制のために、車は何度も方向を変えた。しばし彼は、方向感覚を失いそうになったが、カトレヤの車が、北か東に向かっているのは確かなようだ。

《ソンクラーだ。》と、信也は直感した。ソンクラー県の県都、ソンクラーはタイ湾とソンクラー湖に挟まれた、小さな港町だ。7世紀から13世紀に渡り、スマトラ島、マレー半島を支配したシュリビジャヤ王国の、かつての衛星都市だ。

 けばけばしい厚化粧の商業都市、ハジャイと比べて、ソンクラーはタイ南部の政治・文化の中心都市で、ハジャイからは、車で30分ほどの距離にある。

 カトレヤの車は、こざっぱりしたソンクラーの街に入って行った。ランウィッティー・ロードの時計塔をやり過ごし、サダオ・ロードを右折する。アメリカ領事館のあるこのあたりは、ソンクラーの街の中でも、屈指の高級住宅地だ。

 車は、領事館手前の小道を入って行った。白い壁の大きな屋敷が続いている。美しいソンクラーの街は、ミニ・バスの荷台に乗っている者にとっても、快適なドライブ・コースだ。

 信也は2年前にこの街を訪れた。こぎれいな街並に感心した彼は、午後のコーヒーを、街いちばんのサミラ・ホテルでとったのだった。サミラ・ホテルは、サミラ・ビーチとゴルフ・コースに囲まれた一流のリゾート・ホテルで、背後にノイ山という名の小高い丘をかかえている。カトレヤの車は、この丘の反対側を走る小道の途中で止まった。

 二階建の白い家だ。カトレヤは車の中から門衛に合図した。門衛は、なにも言わずに、門を開けた。信也は、その家の二軒ほど手前でソンテオウを止めた。なにごともないように、白い家の前を歩く。小道と屋敷の間は生け垣で仕切られていて、鉄柱の門の向こう側では、門衛がブースの中から睨みをきかしている。

 信也は、門にかかった漢字の表札に目をやった。《李華明》だ。あたりまえ過ぎて、少し落胆した。スワンニーの女秘書が、雇用主の別邸にやってきただけなのだ。門衛に怪しまれないよう、そのまま小道を歩き続けた。 30分間の追跡は徒労に終わったのかもしれないが、スワンニーの私生活は、それなりに興味をひくものがある。路上の露店商からココナツ・ジュースを買い、その場で飲み始めた。信也のいる位置から、屋敷の外観だけはかいま見ることができる。このあたりでは屈指の部類に入るだろう。ガードは相当固いはずだ。簡単に忍び込めるとは思えない。

 ココナツ・ジュースを飲み終えると、小道を、サダオ・ロードに向かって歩き始めた。目算があるわけではない。しかし、いざソンクラーを離れるとなると、後髪をひかれるものがある。信也はゆっくりとした足取りで李の屋敷の前を歩いた。銃を身につけた門衛が、胡散そうに信也を見つめる。東南アジアでは、金持の中国人は、身の安全に最大の注意を払うのだ。

 サダオ・ロードのすぐ手前で、反対方向から来る一人の男とすれ違った。まるでアフリカ人のように、色が黒い。しかし、体型は、典型的なアジア人だ。年齢は、20代前半だろうか。すれ違うとき、信也を一瞥した。信也は、男をやり過ごすと、なにかを感じて、後ろを振り向いた。視線と視線が絡み合った。若いマレー人は、微笑めいた表情を浮かべると、李華明の屋敷に入って行った。







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