第1章 タイ

 
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「スワンニーか。」

ソンポルは、何本目かのシガーを灰皿に押しつけ、ため息をついた。

「ある程度予想はしていたが。」
「慎重になった理由がわかるでしょう。この街で彼女がどれだけ力があるか、僕たちでさえわかります。こちらのカードをあなたに見せたとたん、スワンニーに筒抜けという事態が怖かった。」
「腐敗した警官なんてそんなにいるもんじゃないさ。」

ソンポルは力なく反論した。

「そうかもしれない。でも、僕のように、バック・パックひとつで世界中を旅して来た人間にとって、警官は決して心を許し合える相手じゃない。ハジャイ警察がどうとか、あなた自身がどうとかいう問題じゃなくね。」
「それより、信也、ニワットは死の直前になんて言ったんだね?」
「ガウロン。ヤンランファン。」
「ガウロン、ヤンランファン? どういう意味だろう。」
「わからない。少なくとも日本語でも英語でもないな。タイ語ではないんですか?」
「君の発音では判断しかねる。知ってるだろうが、タイ語はイントネーションが複雑なんだ。」
「ガウは、タイ語で9という意味よ。」

ソーイが横から口を挟んだ。

「でもそれだけでは意味をなさないわね。ガウロンでひとつの言葉だとしたら。」
「ニワットは君に向かってその言葉を言ったのかい?」

ソンポルがきいた。

「間違いない。」

信也は断言した。

「ニワットは中国人だった。中国語で語りかけたという可能性は?」
「僕は中国語はできない。彼が僕に向かって中国語で語りかけたわけがない。」

「地名か人名じゃないかしら?」

さっきから黙って聞いていた奈津子がポツリともらした。

「そう思うよ。でもそれが誰なのか、あるいは地名だとしたらどこなのか、検討がつかないんだ。」
「もう、よそう。この問題にひっかかり過ぎると、問題の本質からそれていきそうになる。」
ソンポルがうなった。

「それよりソンポル、日本人学生の失踪事件に関してなにか情報はないんですか? 失踪後、彼の両親がタイ警察に捜索願を出している。 ハジャイ警察にも書類が回っているはずなんだけど。」

信也の問いに、ソンポルは黙って首を横に振った。

「ハジャイで失踪したということが確実なら、本格的に捜査をしただろう。単に、本人から連絡がないというだけでは、動きようがない。 サムイ島あたりで、ヒッピーのような生活を送っているのかもしれない。事件に巻き込まれたという確かな証拠でもあるのか?」 
「ワンケーオでスワンニーといっしょだった。これ以上の証拠はないよ。」
「それだけでは弱いな。」
「わかっています。それだけでは、スワンニーを捜査の対象にはできないでしょう。でも、あなた個人の感触を聞きたいな。」
「俺は公的な人間だ。その程度のあやふやな話でスワンニーのとこへは行けないよ。相手がノーと言えば、すごすご引き下がるしかない。」
「警察が動けば、動揺するかもしれない。」
「そういう相手じゃないさ。」と、ソンポルは言って、ドアのほうへ向かった。

「なにもしないというわけじゃない。ニワットが殺され、その情婦が失踪したことは事実だ。その線を手繰っていけば、どこかで、スワンニーにたどり着くかもしれない。」
「たどり着かないでしょう。」

信也は、少しいらついて、反論した。

「それこそ、そういう相手じゃない。」

ソンポルは、ドアを開けたまま、身体を信也のほうに向けた。

「いずれにしても、充分注意はするように。今回は君のガールフレンドも運がよかったが、この次からは、そうはいかないだろう。」 

 ソンポルは出て行った。信也は、あらためて、ベッドの上でホット・ミルクをすすっている奈津子に目をやった。

 確かに運がよかったのだ。今回は。







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