第1章 タイ
33
南海酒店のソーイの部屋に入った信也は、いやな予感に襲われた。パジャマ姿の奈津子が、ベッドの中でミルクをすすっている。意外なことに、ハジャイ警察のソンポルが同室していた。
「なにかあったのかい?」
ベッド・サイドに近づく前に、信也は、そっとソーイにたずねた。ソーイは軽く首を振った。
「だいじょうぶ。たいしたことじゃないわ。」
信也は奈津子に声をかけようとした。しかしその前に、ソンポルが機先を制した。
「驚いたな。君が顔を出すとは。お互いなにかあるとは思っていたが、結局繋がってたんだ。」
「奈津子、どうした? なにがあったんだい?」
ソンポルを無視して信也がきくと、奈津子はベッドの上で肩をすくめた。
「レイプされそうになったんだよ。」
ソンポルが口を挟む。
「レイプだって?」
「安心しろ。危ういとこで俺が助けた。しかし、それもこれも、君の不正直のせいだ。とにかく、君と女の子たちの関係を話してくれないか。」
「怪我はないのか? 精神的なショクは?」
「怪我はないよ。精神的なショクは、それはまあ、あるだろう。だが、とりあえず、今は立ち直っている。」
「だいじょうぶよ。危ないところでソンポルさんが助けてくれたの。」
日本語で、奈津子は答えた。
「人相が悪いから、犯人の仲間かと思ったわ。ソンポルさんを見たとき、舌を噛み切ろうかと思ったの。でも、本当は頼りになる人で、犯人をつかまえてくれたわ。」
「事情を話してくれないか。」
「目薬を買いに外に出たのよ。前の通りを歩いていたら、後ろからいきなりナイフを突きつけられたの。そのまま、路地裏に連れ込まれたわ。どこかの部屋に押し込められ、服を脱がされていると、ソンポルさんが助けに来てくれたのよ。」
「犯人は?」
「この街のチンピラらしいわ。くわしいことはわからないけど。」
「やな予感はしていたんだ。スワンニーは君とソーイのことも知っていた。このホテルに泊まっていることもね。彼女の情報網はたいしたものだよ。」
「スワンニーのさしがねなの?」
「多分。」
「ちょっと待て。」
横で聞いていたソンポルが、いらいらして口を挟んだ。
「英語でしゃべりなさい。」
「彼女はあなたに感謝しているんですよ、インスペクター・ソンポル。」
「君と彼女たちの関係は?」
「友だちと言えばいいのかな?」
「会ったのは?」
「昨日。ハジャイの街でね。彼女が日本人だということで、親しくなったんだ。」
「そうは思えんな。偶然にしてはでき過ぎている。昨日、ナサタニー・ロードの件で君に出会い、今日、その件で聞き込みに行ったところで、彼女が襲われていた。」
「どこですって?」
「クレージー・スポットさ。殺されたニワットの情婦がクレージー・スポットで働いていた。そこで聞き込みをしていたら、隣の部屋でゴソゴソ音がしている。なにかと思って、ドアを蹴破ったら、彼女が襲われていた。襲った男はこの街のチンピラで、クレージー・スポットの用心棒だ。」
「背後関係は?」
「わからんね。それよりクレージー・スポットでおもしろい話を聞いたよ。」
ソンポルはニヤリと笑って信也を見た。
「殺されたニワットの情婦はアリサという女なんだが、事件の前の晩、アリサを買った日本人がいる。若い色男でハジャイ・ロイヤル・ホテルに泊まっていた。しかも、男は、次の晩もアリサを買いに来た。」
「それでアリサはいまどこにいる?」
「まあ、待て。その日本人が君だということを認めるのかね?」
「認めるさ。今、彼女はどうしてる?」
「わからない。どこかに消えてしまった。店の者に言わせると、君がニワットとアリサを殺したんだとさ。」
「殺しちゃいないさ。正確に言えば、二日目に会いに行ったとき、彼女は店にはいなかった。昨日の朝、ホテルから出て行く彼女を見たのが最後さ。」
「君がニワットを殺したのでないことわかっている。現場の状況から判断すれば、それは不可能だからな。少なくとも、直接手を下したのでないことは確かだ。だが、ニワットの件にしろ、アリサの件にしろ、無関係とも思えない。もう少し、事情を説明してもらわんとな。」
信也は、しばらくソンポルを見ながら、計算をした。
「それはあんたに対する信頼感にかかっている。」
「俺に対するなんだって?」
「信頼感だよ。こちらも必死なんだ。すでに奈津子が襲われているし。」
ソンポルは立ち上がると、信也の胸倉を掴んだ。
「なにを言ってる、青二才が。すでに人が死んでるんだぞ。俺に対する信頼感だと? きいたような口をきくな。 これはお遊びじゃない。男が殺され、女が失踪し、おまえのガールフレンドがレイプされそうになった。 それでもまだ、のらりくらり逃げ切ろうというのか?」
「信也さん、すべて話したほうがいいわ。」
奈津子が日本語でつぶやいた。
「ソンポルさんは信頼していいと思う。だって、本気であたしを助けてくれたのよ。 マフィアと癒着しているような人とは思えないの。」
信也はソンポルに胸倉を掴まれたまま、相変わらず計算をしていたが、やがて
「オーケー。わかったよ。すべて話すことにする。」とつぶやいた。
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