第1章 タイ
30
スワンニーは微笑んでいた。金色のシガー・ボックスから、彼女はキャメルを取り出した。
「わたしがあなたのお友だちといたのですか?」
「ワンケーオのバンガローにね。」
「夫が聞いたらなんて言うかしら? 年寄りだけど、嫉妬深いのよ。」
「その頃、あなたは、ビジネスで対岸のサメット島に行っていた。耕介は、ワンケーオであなたを待っていた。ある日、あなたはこっそりワンケーオにやってきた。」
「ワンケーオではないわ。バンペーよ、わたしが行ったのは。サメット島から船でバンペーの桟橋に帰ってきたの。こっそりでもないわ。秘書やスタッフも一緒だった。あなたの友だちは、そこでわたしを見かけたのよ。挨拶ぐらいしたかもしれない。でも、覚えていないの。一度会っただけだし、気づかなかったのね。」
「恐ろしい人だな。」
スワンニーは、キャメルの煙を吐き出すと、クスクスと笑い出した。
「それはみんなが知ってることよ。ハジャイでは、わたしはとても力をもっているの。」
「ニワットは知らなかったのかな?」
「誰ですって?」
「ニワットという中国人ですよ。可哀想に、殺されてしまったけど。」
スワンニーは、信也を凝視した。
「どういうこと?」
「昨日の夕方、彼は僕に電話をしてきて、あなたに関する情報を売りたいと言った。僕たちは夜の8時に、ナサタニー・ロードで待ち合わせをした。」
「その事件はニュースで知ったわ。現場から消えた不審な日本人とは、あなたのことだったのね。」
「僕ですよ。その後、僕は警察に連行されたけど、今朝早く、釈放された。麻薬不法所持の容疑で拘束されて、ナサタニー・ロードの件で取り調べを受け、明け方になったら、なんの理由もなく釈放された。あなたが命じたのですか?」
「まさか。」
「僕はそう思っている。警察に連行して、しばらくいたぶれば、弱気になって喋りだすと思ったのでしょう。でも、音をあげないので、直接会って、真意を探り出そうとしたのですよ。なぜあなたのことをあらっているのか。」
「日本人にしては珍しいタイプね。でも少し失礼よ。」
「ごめんなさい。でもこれで、あなたの疑問もはっきりしたはずだ。僕が知りたいのは、川本耕介がどうなったかということだけなんですよ。」
スワンニーは椅子に背をもたれかけると、軽くあくびをした。
「時間の無駄ね。あなたに会ったのは、ビジネスに有益だと判断したからなのに。」
「だから、ストレートに話してるんですよ。」
スワンニーは、苛立ちながら席を立ち、デスクに帰った。内線電話で秘書を呼び出し、タイ語でなにか話している。
「とりあえず今は帰ってくださいな。」
受話器を置くと、彼女は言い放った。
「今はビジネス・アワーなのよ。インタビューする気がないなら、あなたに割く時間はないわ。」
彼女は、吸いかけのキャメルを灰皿に押しつけた。それから、もう一度、信也を見て、
「でも本当のこと言うと、あなたのような青年は嫌いじゃないの。無鉄砲で元気がよくて。それにとてもハンサムなのね。」
信也は複雑な気持ちで立ち上がった。
「あなたのためにビジネス・アワーを割くつもりはないけど、プライベートな時間は割いてもいいわ。ねえ、今夜、わたしの家にいらっしゃい。夕食に招待するわ。」
信也はちょっとした屈辱感を弄んだ。しかしその屈辱感も長くは続かなかった。なぜなら、スワンニー・ムアンカムこと林美麗は、彼のために、特製の爆弾を用意していたからだ。
「もしよかったら、あなたの二人のガール・フレンド、ソーイと奈津子も連れてらっしゃいな。」
31
奈津子は南海酒店を出ると、サード・ロードを左に折れた。この通りのどこかに薬局があるはずだ。耕介の論文の英訳に没頭していて眼精疲労を引き起こし、目薬が必要になったのだ。東南アジアの地方都市をひとりで歩いてみるのも悪くない。しかしそれにしても、ハジャイの街をひとり歩きするなんて、以前の奈津子なら二の足を踏んだことだろう。今回の旅をとおして、なにがしかの成長を経験しているのは確かなようだ。
後ろから、誰かが抱きついた。
「静かにしろ。」
下手な英語だ。脇腹に刃物が突きつけられている。声も出せず、彼女は、路地裏に連れ込まれた。男は自分の下半身を奈津子の腰に密着させた。ナイフではない、別の堅いものが、奈津子の尻に押しつけられる。
どこかの建物の裏口を器用にこじ開けると、暗い、物置のような部屋に入って行った。手慣れた手つきで、スカートをナイフで切り裂く。色の黒い、縮れ毛の男だ。サングラスが男の表情を隠している。
ナイフを落とすと、左手で奈津子の胸をまさぐり、右手で、切り裂いたスカートの内部に手を入れた。パンティを脱がそうとするのだが、パンストに邪魔されて、かってがつかめない。パンストを履いた女は初めてなのだ。焦らずに、彼は、パンストの上から、奈津子の下腹部に手をあてた。左手はシャツのボタンをひきちぎり、ブラジャーの紐を握っている。青い、高級そうなランジェリーが、日本人の白い肌によく合っている。
柔らかい肌の感触に、男はさらに劣情した。てっとりばやくスカートを脱がし、膨張した自分の性器を、パンストごしに、奈津子の尻の割れ目に押し当てた。ストッキングが、脚だけでなく、臍の下まで覆っている。この布きれが自分の右手を阻んでいたのだ。
男は、ククッと笑いをもらす。左の腕に力をこめて奈津子の身体を締め上げると、右手を使ってパンティ・ストッキングを膝までずり下げた。ブラジャーと同じ色の、ひらひらのついたパンティが、辛うじて若い女の下腹部を覆っている。
男は、奈津子の乳房の感触を楽しみながら、パンティの縁に手をあてた。あとは、この小さな布きれをずり下げるだけでいい。
突然、部屋が明るくなった。逆光の照明の明かりの中に、別の男が立っている。背の高い、精悍な男が、銃を握っているのだ。
《二人の男にレイプされるのか。》
気が滅入り、奈津子は、舌をかみ切ろうかと考えた。悲しみのあまり、すすり泣きを始めたとき、最初の男が彼女を手放した。脱兎のように逃げ出すと、銃の男がそれを追った。
奈津子は崩れ落ち、切り裂かれたスカートにしがみついて泣き続けた。
32
天井にぶら下がった年代もののファンが、けだるい音をたてながら、ねっとり澱んだ空気を掻き乱す。鉄格子のはまった窓からは、外の世界の騒音が、間欠的に跳び込んでくる。鉄製のベッドに横たわり、まどろみから覚めたばかりの蔡志美は、汗ばんだ身体を少しずらして、寝返りをうった。
とにかく、なんとか逃げ切った。噴水広場のロータリーに面した安宿は、暑く、不潔だが、しばらくの間は安全のはずだ。ハジャイで借りていた安アパートと比べても、それほどひどいということもない。
ホァランポーン駅から、人目を避けるように、この旅社にたどり着いた。一日や二日は、なんとかもつだろう。その後のあてがあるわけでない。アユタヤ郊外に遠縁の親戚がいるのだが、あてになるとも思えない。先のことを考えると、不安になるが、とりあえず今日は生き延びた。
生まれ故郷に帰りたいと、つくづく彼女は思う。社会主義は嫌いだが、共産党の支配が続くことはないだろう。ベルリンが落ち、ソ連が崩壊した時点で、共産主義は息の音がとまったのだ。15のとき、自分をレイプした革命委員会の男はどうなったのだろう。あの事件さえなければ、中国で、幸せな人生を送っていたのかもしれない。
権力をかさにきて自分をレイプしたあの男を、18才の周安平がナイフで刺したのだ。ナイフは、地方革命委員徐宝文の太腿を傷つけた。その後すぐ、二人は、着のみ着のまま村を逃げ出し、香港に逃れて、かりそめの自由を手に入れたのだ。
蔡志美は、香港で売春婦となった。周安平は黒社会に身を投じたが、三年後に、抗争に巻き込まれて死んだ。周が死んだとき、二人の間に愛は消えていた。香港の現実は、若い二人には荷がかちすぎた。周が死んだと聞いて、蔡志美は、それでも少し涙を流した。
バンコクのチャイナタウンの安宿で、蔡志美は生まれ故郷を思い出す。福建省崇安近郊の農村で、裕福な農家の娘として、彼女は育てられたのだ。ものごころついたとき、毛沢東はすでに死に、ケ小平のもと、文革は体よく葬り去られ、開放政策が推進されていた。経済開放とともに、彼女の家は豊かになった。豊かさはすでに犯罪ではなくなっていたのだ。
父親は、美しい娘がなによりの自慢だった。教育を与え、上海のような大都会で、近代的な仕事をさせるのが夢だった。
蔡志美は期待に答えてよく勉強した。そして、美しくなることに力を注いだ。 それが革命委員の目をひいた。ほんの一瞬のできごとだったが、彼女の人生を大きく変えた。
誰かがドアをノックした。 蔡志美は、身体を堅くし、呼吸を静める。
「フロントだよ。開けてくれんかね?」
潮州なまりの中国語だ。 フロントにいた老オーナーだろう。彼女は警戒を緩め、ドアに向かった。
「なんなの?」
「蚊取線香をもってきた。蚊が多くて、いつも苦情が出るのでね。」
蔡志美はドアを開けた。年老いた中国人が立っている。 背後から、銃を手にした、見知らぬ男が、彼女に向かって微笑みかけた。
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