第1章 タイ

 
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 カーテンの隙間からうっすらとあかりがもれてくる。朝というにはまだ早いが、レールの繋ぎ目をひとつ越えるたびに夜の闇が薄らいでいく。浅い眠りのさいちゅうに、無意識のうちにカーテンをあけ、河の上に架かる鉄橋を見た。あれがクワイ河だとすれば、バンコクはもうすぐそこだ。

 ハジャイのストリップ・バーでアリサと名乗っていた中国人、蔡志美(ツァイ・チーメイ)は、ナコン・シタマラート発バンコク行の夜行列車の堅い座席の上で、軽い偏頭痛をおし殺した。バンコクまで、あと一時間。気持ちがはやり、眠気が徐々に消えていく。

 うかつなことをしてしまった。不審な日本人のことは秘密にしておくべきだったのだ。信也と名乗る青年は、スワンニーの情報をとるためにだけ自分を買った。ジャーナリストと言ってはいたが、旅行記事を書くためにだけ高い金を払ったとは思えない。信也は、スワンニーに関する裏の情報を求めていた。ハジャイで暮らす女の常識から、それが危険な話題だということは認識していた。あたりさわりのない会話で関心をそらすと、寝心地のいいベッドで寝入り、朝早く、信也と別れて、アパートに帰ってきた。

 安アパートの入り口で、蔡志美は、クレージー・スポットの同僚、アイリーンと出会った。ふたりは同じアパートを借りている。仕事帰りのアイリーンは、アリサに、昨夜の戦果をきいた。アリサは、信也のことを口にした。アイリーンは、さして興味を示さなかった。少なくとも、アリサの目にはそう見えた。

 部屋に帰ったアリサは、情夫のニワットにもう一度信也の話をした。ニワットは、この話に異常な興味を示した。以前、スワンニーの秘密を握っていると、おもわせぶりに言ったことがある。アリサは、そのときのことをぼんやり思い出した。そして彼女は、自分の犯した過ちに気がついた。



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 南泰旅行社のオフィスで、書類にサインをしているスワンニー・ムアンカムは、予想に反して、化粧っ気のない素顔を信也にさらした。白い、洗いざらしのシャツを無造作に着こなし、眼鏡ごしに信也を観察する。眼の下には、すでに小皺がめだっている。キャリア・ウーマンというほどの雰囲気もない。

《中年のおばさんだ。》と、信也は思った。年齢も三〇代の後半になっているはずだ。信也の年齢の人間にとっては、もう充分におばさんなのだ。

 しかしスタイルは悪くない。適度に肉がついてはいるが、体型は崩れていない。シェイプアップには気をつかっているのだろう。香水の趣味もいい。総じて言えば、不快感はない。

「サワディ・カー。」
スワンニーは静かに言った。
「どうぞ、お座りになって。」
信也は、サワディ・クラと答えながら、ソファに腰を降ろした。

「ずいぶんお若いのね。もう少し年配のかたかと思っていたわ。」
「ほんの駆け出しですから。」
「日本人の取材を受けるのは初めてだわ。オーストラリアやマレーシアからの取材は増えているのですけど。」
「これからは日本人ジャーナリストの取材も増えるでしょう。」
「そうだといいわね。」
「日本人は初めてではないでしょう。」
「勿論よ。ビジネスではずいぶんたくさんの日本人がハジャイを訪れているし、ツーリストも徐々に増えてはいますから。」
「僕の友だちのこともご存じですよね。」

 スワンニーはデスクを離れ、部屋の片隅の食器棚へ向かった。コーヒーメーカーからコーヒーを注いで、信也の前のソファに腰を降ろす。少し開いたシャツの胸元から女の匂いが漂ってくる。

「あなたのお友だち?」
「ええ。川本耕介のことですけど。」
「川本?」
「ええ。川本耕介です。」
「どなたでしたっけ?」
「文化人類学専攻の学生で、タイのイスラム教徒の研究をしていました。彼は、研究の必要上何度もこの地方を訪れているうちに、あなたと知り合いになりました。というよりも、フィールドワークを行うにあたって、あなたの助力を求めたのです。あなたは、タイ南部のイスラム教徒の集落の地域開発や観光開発に手を染めているので、なにがしかのコネクションをもっているからですよ。」
「そういうことがあったかもしれないわ。」
スワンニーは、コーヒー・カップを口に運んで、
「名前は忘れました。あなたと同じくらい若いかたで、熱心な人だったわ。どこかの村の村長に紹介状を書いたような気がする。」
「彼は僕の友だちなんです。」
「そうですか? それで?」
「行方不明になっているんです。」
「行方不明?」
「ええ。去年の7月から。去年の7月、彼はワンケーオで一週間休暇を過ごし、それ以降、行方がわからないんです。」
「そうですか。」
「そのとき、僕はバンコクにいました。彼はワンケーオから僕に電話をしてきました。電話で彼は、ある女性といっしょだと言ったのです。詳しい話はできなかったのですが、僕が聞いたその女の名前は、スワンニー・ムアンカムでした。」



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 列車は30分遅れでホァランポーン駅に到着した。 ホァランポーンはバンコクの中心にあり、バンコク着のほとんどの列車の終着駅だ。

 蔡志美は、小さなバッグひとつをもってプラットフォームに降り立った。ここまでくると、さすがにほっとし、神経も落ち着いてくる。 それと同時に、急激な空腹をおぼえるのだ。昨日からほとんどなにも口にしていない。恐怖と不安で、食物が喉をとおらないのだ。

 昨日の朝、アパートで寝ていると、組の者がやってきた。客とトラブルを起こすたびにやってくるいつものゴロツキたちでない、もう少し上のクラスの男たちだ。 男たちはアリサを組の事務所に連れて行き、不審な日本人のことを繰り返したずねた。彼女は知っている範囲ですべてを話した。 ただひとつ、ニワットに口をすべらしたことを除いて。ニワットに義理立てしたわけでない。自分が逃げるための時間稼ぎをしただけなのだ。

 ニワットはなにか企んでいる。スワンニーの秘密を金に換えようとしているのだ。組の者、つまりはスワンニーが知ったら、ニワットはまず殺されるだろう。 それはしかたのないことだ。問題は、自分まで一蓮托生と思われてしまうことだ。そして、それは死を意味している。

 アリサは、事情聴取から解放されると、アパートに帰り、現金と貯金通帳だけ持って、ローカル・バスに乗った。 全財産を梱包して長距離バスに乗り込むわけにはいかないのだ。さりげないそぶりでローカル・バスを乗り継ぎ、ハジャイから200キロほど離れたナコン・シタマラートへ着くと、運よく、バンコク行の夜行列車の切符が手に入った。

 ここまで無事にたどり着けたのは奇跡と言っていい。出発のベルが鳴ると同時に彼女は列車に乗り込んだ。







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