第1章 タイ

 
24

 狭く暑苦しい取調室の時計は、すでに12時を指している。ハジャイの警察は、本来最初になすべき質問を2時間遅れで投げかけてきた。つまり、最初の二人の警官とカセムサンは、もともとナサタニー・ロードの件に関しては埓外にいたということだ。彼らは第三者の意向を受けて、事情も知らぬまま信也を連行し、隠れたパートナーをあぶり出そうとした。それはハジャイ警察全体の意志ではなく、カセムサンたちが小遣い稼ぎでやったことなのだ。

 その一方で、ソンポルは、ナサタニー・ロード殺人事件に関して、不審な日本人の跡を追っていた。ハジャイ中探しまくったに違いない。自分の部下が麻薬所持容疑で取り調べ中だと知ったとき、どんな気分だったろう。

 信也は、ソンポルの顔色を窺いながら、打つべき手を考えた。悪い男ではないようだが、甘い相手とも思えない。曖昧な話で逃げ切れることはないだろう。

「オーケー、インスペクター・ソンポル。夜の8時頃、僕はナサタニー・ロードにいた。」
「誰と?」
「一人で。」
「なにをしていた?」
「メコンを飲んでいた。」
「そのとき、なにか変わったことは?」
「近くで男が死にました。背中をナイフで刺されて。」
「それで?」
「男のそばに行きました。誰かが抱き起こすと、なにかうめいて、そのまま死んでしまった。」
「それから?」
「間近に人の死を見て恐ろしくなり、その場を離れました。気分を変えるために、女の子のいるバーに行ってビールを飲みました。でも、ショックが残っていて、あまり楽しめなかったな。ホテルに帰ろうとしたら、警官に呼び止められ、ここへ連れてこられました。麻薬不法所持の疑いでね。」
「殺された男に見覚えは?」
「ありません。」
「変だな。」
「なにがです?」
「目撃者によると、男は君を知ってるようだった。明らかに君に向かって歩いて行き、いまわのきわに、君になにかささやいた。」

信也は、黙って肩をすくめた。

「男は、集まった連中の中から君を見つけだし、君になにかささやいたんだ。
 ミスター・ノブヤ、男はいったい、なにをささやいたのかね?」
「わかりません。」
信也は真摯に答えた。

「男の名前も、職業も、年齢もわかりません。僕に向かってなにかささやいたとは思わないけど、それにしても、あれはうめき声としか聞こえなかった。僕になにかささやいたとして、それは日本語だったのですか、それとも英語? 僕はタイ語は話せないので、タイ語だとしたら、彼が話しかけたのは僕じゃないということになる。」

ソンポルは指で机を二・三度叩いた。

「周りにいた連中に言わせると、彼らの理解できない言葉だった。だから、日本語か英語だろうということだ。」
「むちゃくちゃだ。」

信也はため息をついた。

「世界には三つの言語しかないんですか?タイ語と英語と日本語と?」
「いや。問題はそういうことじゃない。要するに、男が何語を話したかということさ。
「ノブヤ、君は中国語を話せるのかね?」
「中国語? 勿論話せませんよ。でも、どうして? ああ、そうか。すると、男は、つまり・・・」
「そうだよ。奴は中国人なんだ。」

 なるほど、つじつまはあう。信也は腕を組み、視線を天井の隅の方へ向けた。小さな、蜘蛛のような虫がドアの隙間を通って部屋の外へ出て行った。

 スワンニーも中国人だ。男とスワンニーの接点が見えてきた。

「ニワットというタイ名を名乗っていたが、もともとは張高文(チャン・コーマン)という中国人だ。5年ほど前に香港から流れてきたチンピラで、ケチなカツアゲやゆすりで食っていた。麻薬の売人もやっていたらしい。」

 ニワットと名乗る中国人はスワンニーの秘密を握っていた。

《スワンニーが殺したのか?》

男は、チンピラヤクザだ。なにかのトラブルに巻き込まれ、別件で殺された可能性も考えられる。

《スワンニーのイメージがつかめない。警察を動かしたり、簡単にひとりの人間を抹殺できるほど権力をもっているのか。それとも、起きたことすべてが偶然で、彼女はなんのかかわりもないのだろうか。》

 明日はどうしても彼女に会いたい。もし、ハジャイ警察が、このまま解放してくれるとしての話だが。

 信也は、組んだ腕をほどき、背中を伸ばすと、上目づかいにソンポルを見た。



25

 大きめの浴槽に思い切り身体を伸ばし、こころもち首を後ろにそらして、ぼんやりと天井の電灯に視線を移す。なみなみと張った暖かな湯が、弛緩した精神にひたひたとしみてくる。さざ波のように小刻みに揺れている神経が、少しずつ、鎮まっていくようだ。

 熱帯のうだるような気候の中で、熱い湯につかる習慣をもつ彼女は、生粋のタイ人ではない。福建省泉州郊外の農村で生まれ育った林美麗(リム・メイリー)は、15才のとき、脱出先の香港のホテルで、生まれて初めて西洋式のバスにつかった。福建省の農村で、井戸水で身体を拭っていた彼女は、麻薬と精液と難民たちの街で、資本主義の素晴らしさを知ったのだ。

 しかし香港が彼女の視野の限界というわけではなかった。美麗は、共産党に対してなんの幻想も抱いていなかった。共産主義者が中国を支配する限り、香港に未来はなく、美麗に安全はない。3年間、香港で小金を貯め込むと、彼女はハジャイに飛んだ。カナダへの移住は、彼女の経歴の小さな傷のため、最終段階でカナダ政府から拒否されたのだ。失意のうちに、美麗は、福建省時代の知人を頼ってハジャイへ移った。

 結果的には、それがよかった。そこで彼女は新天地を見いだした。カナダではこうはいかなかったに違いない。ハジャイへきてすぐ李華明の秘書になった。美麗は秘書としても優秀だったが、もちまえの美貌を生かして、李の愛人におさまった。ハジャイへきて3年後、本妻が死に、法的にも李の妻となることができた。

 そのころまでに、美麗はビジネスの世界で頭角を表していた。ホテル経営の片手間にやっていた旅行代理店を独立させ、オーストラリア、マレーシアにまでビジネスを拡大し、不動産開発の分野にも進出した。彼女自身が築いた地歩により、警察や軍部、行政の中に勢力を伸ばし、事実上、タイ南部を手中にした。美麗の野心と才覚が、上昇気運にあるタイ経済の中で開花したのだ。ハジャイには、これという秩序がなかった。機会は誰にでも開かれ、美麗は機会をものにした。難民あがりの中国女が、バンクーバーを支配するのは不可能だろう。ハジャイではそれが可能だったのだ。

 いまでは、スワンニー・ムアンカムと名乗る林美麗は、たっぷり浴槽につかった後、適度に肉のついた、弾むような身体をタオルに包んで、寝室に向かった。夫の李とは、もう何年も寝室を別にしている。李は今頃、ソンクラーの別邸で、17才のマレー娘と寝ているに違いない。ふたりの関係は、ビジネス上のパートナーでしかなくなっている。

 化粧台の前に座り、髪をブラッシングしながら、美麗は、不審な日本人のことを考える。カトレヤの報告によれは、ジャーナリストであることは間違いない。いくつかの雑誌に署名入りの記事を書いている。取材意図も、筋がとおっている。クレージー・スポットのアリサの一件がなかったら、疑うこともなかったに違いない。

 ノブヤと名乗る日本人は、いったい自分のなにを探ろうというのか。カセムサンの脅しにも屈服しなかった。彼女のイメージにある日本人とは違うようだ。集団では一枚岩の日本人も、ひとりとなるとおよそひ弱なものなのだが、この若者には、どこか興味をそそるものがある。明日の午後、会うことにしよう。 美麗は、受話器をとった。日本人の若者を釈放させるのだ。



26

 急な展開だった。ソンポルによる事情聴取のさいちゅうに、突然信也は釈放されたのだ。 彼が警察署を出たのは、午前2時をまわっていた。

 ソンポルは、2時間近くの事情聴取の間、もっぱら、信也と殺された男との関係に的を絞って質問を繰り返した。 目撃者の証言から、信也がニワット殺しの犯人でないことは明らかだ。信也自身、チンピラヤクザを背中から刺すようなタイプではない。 信也のイメージと犯行の内容が、一致しないのだ。

 このことに対してソンポルは自分の直感に自信をいだいていた。 この日本人の青年には、犯罪にまつわる暗い雰囲気がない。

 しかし、まったく無関係とも思えない。 問題は、ニワットと信也との間に、なんの接点も見いだせないことだ。ニワットは、ここ数年、ずっとハジャイを縄張りにしてきた。 信也はハジャイに着いたばかりだ。考えられるのは、信也が麻薬を買うために、なんらかのルートを通してニワットに接触したということぐらいだ。 日本人や欧米人のバック・パッカーの一部は、気軽に麻薬に手を出すことを、ソンポルはよく知っていた。

 カセムサンの役割も気になるところだ。匿名の密告があったということだが、それにしてはやり方があらっぽすぎる。 そのうえ、釈放しろという上層部からの突然の命令だ。裏になにかある。単純な、マリファナ煙草の密売事件以上のものが、信也とニワットとの間にはあるようだ。

 ソンポルはマールボローを深々と吸い込んだ。日本人の青年が持ち込んだ事件が、久々に、狩人としての本能を刺激している。

 彼は、デスクの上に投げ出したニワット関係のファイルを、もう一度、丹念に読み返した。







トップ