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第4章 香港、シンガポール


 香港で僕は結婚した。 相手は上環の金物問屋の娘、慧敏で、僕は彼女の店で店員として働いていた。 僕は店では有能で、働き初めてすぐに頭角を現していた。店の仕事は、日本橋の僕の実家と同じようなものだった。 大学で経営学を学びながら、食器問屋のビジネスを、僕は家で学んでいたのだ。


 慧敏とは、知り合ってすぐに恋に落ちた。彼女は美しく聡明で、恋に落ちるのはとても簡単だった。 色白の肌や長い髪、それに彼女の話す広東語が、僕にヴィヴィアンを連想させたけど、その外見的な類似性にもかかわらず、このふたりの中国女は、とても大きく違っていた。 慧敏の美しさは、しっかりと生活に根ざしていて、小さな迷いや気まぐれから人生を誤ることなどけっしてないような強靱さを秘めていた。 その華奢な体型にも似ず、腰だけはよく張っていて、7人も子供を産んだ彼女の母親の、多産系の血を引いているのは明らかだった。


 裸にしたときの彼女はとてもエロティックで、自制することなどできない僕の猛々しい欲望をおおらかに受けとめ、 南中国の豊穣な大地のように、僕に、人生の実りを与えてくれたのだ。


 あるとき、彼女の両親や他の店員たちの目を盗んで、倉庫の奥で睦み合っていたとき、慧敏がふとつぶやいた。


 「なんだか、おかしいの。」
 「なにが」と僕。
 「あたし、ずっと前からあなたのこと知ってたみたい。もう、何年も前から、あなたと、こんなことやってたみたいなの。 本当は、ついこないだまで、バージンだったのにね。」


 結婚式を終えると、僕たちは、インドからトルコへと巡る新婚旅行に旅立った。 僕と慧敏は、感情の、どこか奥深い部分で一致していて、旅先で見聞きする珍しい風景や珍しい人々に対する好奇心を分かち合った。 歴史の神秘に縁取られた異国の情緒に、ふたりで感嘆の声を上げたのだ。 ひとつの街から次の街へと渡り歩く間に、僕たちは、互いへの愛と理解を深めていった。


 そして僕たちは、旅程の最後に、シンガポールに立ち寄った。


 オーチャード・ロードのホテルに泊まった僕は、慧敏がシャワーを浴びている間に外に出た。 タクシーから眺めるシンガポールの街は大きく様変りしていたけど、南国に特有の、熱く湿った空気は、僕に、かつてここで起こったことを否応なく思い出させた。 かつて僕は、この街で、終わりのない暗闇に引きづりこまれ、道を見失い、邪悪な運命にこっぴどく弄ばれ、その後の何年間かを無為に過ごすことになったのだ。


 クレタ・アヤのチャイナタウン・コンプレックスの前でタクシーを降りた僕は、あの夜のように、ケオン・サイク・ロードの緩やかな坂道を登って行った。 道の両側に広がる崩れ落ちそうなショップ・ハウスの中で商売を営んでいた娼館の多くは、 すでに改修を終え、明るく華やかな色彩で彩られたホテルやレストランに姿を変えていた。 しかし、坂道が左側に弧を描き、やがて小高い丘の頂に近づくにつれ、昔となにも変わらない紅灯の一画が、僕の前に現れたのだ。


 僕は、歩道を覆った騎楼造りの建物の下を歩いていた。 謡曲を奏でる胡弓の調べが雨上がりの夜空に消えて行き、もの哀しい旋律が、僕に、青春の甘酸っぱい思い出を喚起させた。 やがて、「永楽香香荘」と書かれた桃色の釣り灯籠が目に入ると、僕は、そこで立ち止まった。


 扉を開けると、かつてのように、客待ちをしている女たちが目に入った。 女たちも、受付の老婆も、僕の知らない顔で、僕は、突然迷い込んだ一見の客として導き入れられた。


 「若い子がいい?」


 女たちの顔をただ見ているだけの僕を訝しんで、老婆がきいた。 僕は、なにも言わずに、しばらく周囲を見渡していた。そして、廊下の奥の暗がりに、昔懐かしい顔を見い出したのだ。


 蒼ざめたくらいに白い肌、かぐわしく、肩までかかった長い髪、そして僕を幻惑させた深紅のチャイナ・ドレス。


 僕は息を止めて、ヴィヴィアンを見つめた。一瞬の間に、ありとあらゆる感情が甦り、言葉を失い、茫然自失し、その場に立ち尽くした。 しかし、彼女は僕を見ていなかった。かつて、衷心から僕が愛した女は、なにも見てはいなかったのだ。 虚ろなまなざしは僕をやり過ごし、けっして結ぶことのない焦点は、永楽香香荘のうす汚れた壁の上を彷徨い続けていた。


 「その娘かい?」


 老婆がわけありげにきくと、客待ちの女たちは一様に笑い出した。


 「頭がいかれてるのよ。」
 とうのたった娼婦が僕にささやいた。


 「でも、あっちの具合はいいみたいよ。これで、結構、客はつくんだわ。」

 
 僕は、もういちど、ヴィヴィアンを見つめた。 瞼の下に皺は深く刻まれ、肌は確実に輝きを失いつつあったのだけど、その美しさは、いまでも僕の心をときめかせた。 シンガポールに囚えられ、世界を切り開くことのできなかった女は、哀れな狂女として、ケオン・サイク・ロードで生きながらえていたのだ。


 僕は、いつか、ふたりで、沖合の島にピクニックに行ったときのことを思い出した。 彼女は船から身を乗り出し、遠ざかって行くシンガポールの街並みに見入っていた。 そしてそのとき、僕は、彼女の運命を予感したのだ。


 虚ろであった彼女のまなざしが、一瞬、僕の上に注がれ、「ええ、そうよ。」とつぶやいた。


 「私はシンガポールに囚えられたのよ。それが私の運命だったわ。 でも、あなたは行ってしまったのね。だから、私には、あなたが見えないのよ。あなたには、私が見えるのに。」


 もちろん、それは僕の幻覚で、ヴィヴィアンの視線は、相変わらず虚空を彷徨い、かぼそい腕を僕がとろうとするたびに、 子供のように、いやいやをするのだった。


 「30分で80ドルよ。どう?」


老婆にせかされ、僕は首を振った。
 「悪いけど、また、来るよ。」


 表に出ると、僕はそのまま、坂道を降りて行った。 途中、ひっそりと静まり返ったヒンズー寺院のところで立ち止まり、ふと振り返ると、真新しいホテルが放っている煌々とした照明が、 永楽香香荘の、ぼんやりと輝く桃色の釣り灯籠の灯火を、頼りなく、不確かなものにしていた。


 僕は、ニュー・ブリッジ・ロードの歩道橋を渡ると、タクシーを拾い、慧敏の待つオーチャード・ロードへと帰って行った。


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