シンガポールに着いて初めての夜だった。
ベンクーレン・ストリートの安宿で荷をほどいた僕は、眠れないまま、ラッフルズ・ホテルから海に向かって広がる公園のあたりを歩いていた。
南国の夜は、満天の星たちが夜空を埋め尽くす時刻になっても、まだ暑さが残り、
シンガポール河を挟んで対岸にそびえ立つシェントン・ウェイの摩天楼は、涼をとるためにそこにやって来た者たちに、
のっぺりとして陰影のない表情を見せていた。 |
翌年の春に卒業を控えた僕は、大学最後の夏休みをアジアで過ごす予定で、このシンガポールの街にやって来たのだ。
あてもなく、ただ、自由気ままにインドネシアの島々を横断し、フィリピンからタイのあたりを、たっぷり2ヶ月かけて歩き廻るというのが、
そのとき、僕が持っていた唯一の旅程であった。食器問屋のあと継ぎとして、卒業後の人生を送ることが決まっていた僕にとっては、
最後の、自由で気ままな夏になるはずだったのだ。 |
シェントン・ウェイの光に誘われて、僕はさらに南の方へと足を進めた。
シンガポール河を渡り、ボート・キーの、古い倉庫の立ち並ぶ一帯をやり過ごすと、いつしかチャイナ・タウンと呼ばれるあたりに足を踏み入れていた。
もうたっぶりと遅い時刻ではあったのだけど、翌日の予定がなにもないという気楽さが、僕の足を無鉄砲にさせていたのだ。 |
クレタ・アヤでは、すでに閉まっていたチャイナタウン・コンプレックスの傍らを通り過ぎた。
行くあてもなく、ただ、おだやかな坂道を登って行くと、背後には、まだ、ニュー・ブリッジ・ロードのざわめきが聞こえていたけど、
坂の上から吹きつけてくるなま暖かい夜の風が、一歩、足を進めるごとに、表通りの賑わいを僕の背後に追いやっていった。 |
ケオン・サイク・ロードと記された坂道には、人通りもなく、道の両側を占めているショップ・ハウスの灯火が、弱々しく、足元を照らし出していた。 |
厚い雲に覆われていた月が突然姿を現し、不吉なくらい赤い光が、古いチャイナ・タウンの街並みに注ぎだしたとき、
僕は、「永楽香香荘」と記された桃色の釣り灯籠に気がついた。 |
軒先に吊された、小さくて、くすんだくらいに薄汚れた灯籠は、いつもなら気づくこともなくやり過ごしてしまったのだろう。
しかし、気恥ずかしいくらいに明るい、南国の植民都市に辟易していた僕は、その灯籠が放っている妖しげな灯火に、
この街の、普段なら旅行者などにけっして見せることのない、もうひとつの貌をかいま見た気がした。 |
そして、それは、遠からず朽ち果てようとしている、この、ひなびた一画が求める生け贄を、うかつにも近づいてきた愚かな魂を罠にかけるため、
ケオン・サイク・ロードの精霊が手招きしていたようにも思えるのだ。
だが、そのときの僕に、どうしてそれがわかっただろう。 |
しばらくの間、僕は、賽の目が出るのを待つような気持ちで立ち止まっていたが、
やがて、意を決すると、永楽香香荘に足を踏み入れた。そして、そのとき、僕のもうひとつの人生が始まったのだ。 |